列車をね、待ってるの。
青くてとっても長い列車。そこに乗っているみんなは幸せな顔をして外を眺めたりおしゃべりしたり本を読んでる。中には時々クラスメイトやパパみたいに私の知っている人がいて、やっぱりみんななんにも心配なことはないよ、って顔をしている。
私も混ぜてほしくてホームで列車を待っているけれど、意地悪な車掌さんが乗せてくれないからまだ一度も乗ったことがない。切符がないといけないらしいのだけど、そんなものは生まれて来た時にもらわなかったみたい。
ずっとずっと列車に乗りたかった。いつからだったか忘れてしまうほどずっと。青い列車の中で数学の授業がいやだとか好きなアイドルが結婚しただとかそんなことに悩まされて、毎日が退屈だとかこんな日々ゴミ箱に捨てても惜しくないとかぼんやり思って、平凡な日々に感謝もせず諾々と生きることに慣れたような気になってそれでも小さな事に感動したり怒ったり泣いたりするそんな、そんな普通の人間みたいな毎日を過ごしたいって、ずっと思っていた。ずっと。
「(切符。切符がないと乗れないの。誰かから切符をもらわなきゃいけないの。)」
ああ切符だ。切符をもらわなきゃ。深いあの青の列車に乗れる切符を手に入れなくてはいけない。
でも誰から。
「沙樹。」
どこからか名前を呼ばれて、鍔の広い麦藁帽の縁がふわりと浮いたような気がした。
そっと立ち上がりホームのそばまで行くと、錆びた鉄の敷かれたそこに金色のさらさらしたものが揺れていた。正臣の髪の毛だ。
「正臣。正臣も乗れなかったの。」
「乗り遅れた。」
正臣は彼の頭より高い位置にいる私を見上げると素っ気なくそう言った。彼のすぐ後ろに大きな黄色いものがある。私にはそれが恥ずかしがって彼の後ろに隠れているように見えた。
「正臣。バイク持ってたの。」
「買った。」
「買ったの。頑張ったね。」
「頑張ったよ。沙樹を乗せようと思って。」
「正臣。線路の上を走ってきたの。」
「走ってきたよ。沙樹を見つけようと思って。」
正臣は真摯な目をしていた。なのに私は少しだけがっかりしたような、悲しいような気持ちになって、彼の瞳から目をそらし、馬鹿だなあ、なんてことを思った。
「(馬鹿だなあ正臣。正臣はまだ列車に乗れたのにね。)」
バイクなんか買っているから、私を探したりしているから乗り遅れちゃうんだ。
私はうつむいて足元のサンダルのストラップをじっと見ている。それでも正臣が私の帽子の広い鍔の奥の瞳をまだまっすぐ見上げていることがなんとなく気配でわかって、顔を上げづらかった。
「沙樹。早くしないと列車が来るぞ。」
「いいよ。私列車に乗るんだもん。」
「列車よりこっちの方がずっと楽しいよ。」
「楽しくなくていいよ。普通で、退屈でいいよ。」
子供みたいにわがままになって、正臣を困らせたり悲しませたりしたくなっていた。
「私、黄色なんて嫌いだよ。大嫌いだよ。青がいいの。深い深い青色がいいの。」
下を向いたままサンダルの踵を軸にくるりと方向転換して椅子に戻る。この位置からは正臣の目も髪もバイクも何ひとつ見えないのに、まだ私は顔を上げられないでいる。
沙樹。正臣が呼んだ。感情のこもらない、さ、と、き、をただ一緒に読んでみたような音。
沙樹。私は無視を続けて麦藁帽が落とす影をみている。遠くで列車の走る音がした。
かたかたかた、がどんどん大きくなって、がたがたがた、といっている。がたがたがた、ががたんがたんがたんになって、がたんがたんがたんがごとんごとんごとんになった。
さ、と、き、の音はもう列車の音にかき消されて聞こえないのに、正臣が私を見つめるあのまっすぐな視線だけはまだ私を刺していた。
「正臣!」
立ち上がった拍子に帽子の角度が歪んで、強い日光が私の目を刺した。ごとんごとん。がたんがたん。がたがた。かたかた。向かいのホームから出発した列車は、正臣の金色の髪をいじめるみたいに激しく巻き上げる。
「ごめんな沙樹。黄色がいいと思ったんだ。」
「いいの。いいの。」
子供のように一心に駆け出し、ホームを飛び降りて黄色のバイクに跨った正臣の背中に掴まった。ごめんなさいという気持ちをこめて背中に頬をくっつけると、帽子の鍔が押されてそのまま線路に落下した。
正臣が買った大きな黄色いバイクは、青い列車よりずっと速く、線路のない道を自由に走る。
ねえ正臣。君のバイクは目の覚める本当にいい黄色をしているねぇ。
(日常行きの青い列車が一番ホームから出発します)