少女だった。
いや、ベッドに横たわる彼女は今も少女なのだから、訂正して子供と言った方がよいだろう。
子供だった。
小さい小さい、小学校に上がってまだ間もないくらいの子供が、彼女だった。

「動いちゃいけないの。私が鬼なの。ママがもういいよ、って言うまで動いちゃいけないの。」

絶対なのよ、ランドセルがたいそう似合う背中は、なにかから中心を守るように丸く曲げられて、丸暗記した言葉をそのまま、というようにそう告げた。

「ママはどこなの?」

「さあ、わからない。お姉さんはママを知っている?」

「いいえ、知らないわ。私なんにも知らないの。あなたのママも、あなたのことも。」

あんなにいっしょだったのに、私は彼女にこんな子供時代があったことを知らなかった。それ以上にもっと私の知らない彼女のことは沢山あるだろう。
小さい背中はうつむいたままで、背後にいるこちらからはその表情は見えない。

「うふ、お姉さんより私の方がきっと物知りよ。私、高校を卒業したんだから。」

「高校を、」

「お姉さん、高校って知ってる?高校ってね、すごく賢い人が行くところなのよ。フェルマーの最終定理を知ってる?ああいうのがすらすら覚えられないといけないのよ。」

生意気だとは思わなかった。むしろ、その無邪気になにかを教えてあげようという姿勢が、自分から誰かに関わろうとしているようでかわいらしいと思った。そしてすこし、ほんのすこしだけ、その必死さを不憫に思った。

「ママは来ないの?」

「うん、まだね。でもきっとすぐよ。今日が死んだらきっとすぐよ。」

今日が死んだら。妙な言い回しだ。子供らしいと言ったらそうなのだけれど、薄ら寒い空気をまとっているのはなぜだろう。

「毎日ね、少しずつ少しずつよ。今日が死んでいくの。今日が死んで今日が死んで今日が死んだらね、なんになるかお姉さん知ってる?」

「……知らないわ。」

「うふ!なんにも!なんにもなくなっちゃうの!」

クスクスクス。彼女が笑うと周りの木々も応えるようにざわめく。地面に触れるか触れないかという短いスカートが揺らいで、私の青い制服もはたはたとなびいた。
ママに会いたいの?私が尋ねると、笑いを止めた惣流さんは先程よりも深く体を丸めて、その問いには答えなかった。うるさかった木々は固まってしまったかのように押し黙って私たちを見下ろしている。私のスカートも彼女のスカートもたらりと垂れて、元気がない。

「……ママに、会いたくならない?」

「……会いたいけど、動いちゃいけないの。ママがもういいよ、って言うまで動いちゃいけないの。絶対なのよ。」

さっきの言葉を再び繰り返して、惣流さんの明るい髪の頭が一層深く沈んだ。そんなひどいことを、誰がどうしてこの子に言ったのだろう。こんなに母性に飢えた子が、永久にルールを破れないままなのはわかりきったことなのに。

「お姉さんはどうしたの?お姉さんも誰かを待ってるの?」

「……ええ、待ってるの。でも、会えないほうがいいの。」

「どうして。」

「私が死んでいるから。」

子供の惣流さんはなにも答えず、代わりのように頭をすこしあげる。その小さな頭の中で、あなたはなにを考えているのだろう。会ってくれない母のことか。それとも自分の背後に立つ女のことか。高校を卒業したという彼女は、それでも決して賢いわけではない。
彼女の頭に光の輪が斜めにかかって、私は彼女との距離を一歩詰めた。

「私、あなたの教えてくれたことはひとつも知らなかったけど、特別ルールは知ってるわ。」

○×△、それを描きながら進むの。それなら鬼も動いていいの。
でたらめだ。しかし私が神妙に言うと、草木が急に成長をはじめたように惣流さんの頭は持ち上がって、いけないことを尋ねるように、ほんと?と小さく言った。
本当、諭すような声を出すと、途端に木々は吹き飛ばされそうにバタバタと音を立てた。ごうと吹いた風が、私の後ろから彼女の背中へと体当たりしていき、長い長い髪の毛は束になって風を追う。
彼女の紅葉のような手は、確かに吹き飛ばされた木の枝を、地面に向けていた。

「まる、ばつ、さんかく、」

「まる、ばつ、さんかく、」

「まる、ばつ、さんかく……」

まる、ばつ、さんかく。風はその無邪気な声までさらっていくことはしなかった。○×△が、しゃがんだまま歩く彼女の靴の下から次々に伸びて、彼女の声が聞こえなくなる頃には、あの小さな背中はさらに一層小さくなっていた。彼女は一度も振り返ったりしなかった。私は、幼い頃の彼女の顔すら知らないままだっだ。
惣流さん、ふいに呼び止めかけて、やめた。

「……アスカ、」

小さくはじめて彼女の名を呼ぶと、ずっとずっと先の、小さな背中が立ち上る。ゆっくりこちらを振り返る。薄い髪色のすらりとした手足を持った、水色のスカートの少女。夕日が、彼女の頭に輝く輪を落とした。

「(あ、今日が死んでく。)」

今日が死んで今日が死んで今日が死んで、明日が来ても今日にしかならないことを、アスカは知っているのだろうか。




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