name change

なまえちゃんが泣いているのを見たことは過去に三回だけある。
可愛がっていた野良猫がいつの間にか死んでいたときも、交通事故で手首がおかしな方向に曲がったときも、クラスメイトから執拗に意地悪されたときも、彼女はくちびるを噛み締めて耐えていた。そんな彼女が泣いた時のことを、僕はさっき見てきたみたいに思い出すことができる。
一度目はめだかちゃんが死んじゃうんじゃないかって大怪我をしたとき。二度目は実家の引越しでめだかちゃんと離れ離れになりそうだったとき。三度目はめだかちゃんが喜界島さんにキスをした時。
だったらさ、今彼女が泣いている理由もなんとなく見当がつくじゃないか。


『振られちゃったの?』

僕の言葉は空き教室に響く彼女の嗚咽をわずかに大きくさせた。なまえちゃんは小さい電気ショックを何度も食らったみたいな背中を頑固にこちらへ向けて、泣いていることを悟られないようにしているのが痛いくらいにわかる。一度目も二度目も三度目も彼女は強がって泣いていないふりをしていた。手のひらに爪を立てて呼吸を殺し、深く深くうつむいて、泣いている顔も涙の雫も僕には見せてくれなかった。
それはなまえちゃんらしい強がりでもあるけれど、泣いているのが僕に知られたら余計に傷つく言葉を掛けられることを、彼女はきちんと知っているのだ。

『気持ち悪いって言われちゃった?』

一度目も二度目も三度目も彼女は強がって泣いていないふりをしていた。手のひらに爪を立てるなまえちゃんの背中が落ち着きなく上下する。こんなに弱々しい女の子だっただろうか。いや、女の子というものはほとんどの場合弱々しいものなのだから、こんなにも背筋が冷えていく理由はない。僕が今初めてのようになまえちゃんにそれを感じたのは、彼女が僕の前で女の子らしく振る舞うことを避けていたからだろう。彼女は僕の前でいつも正しく理性的で打たれ強い人間であろうとする。
まるで攻撃される隙を隠すみたいに。

『言われなくてもわかってるよねぇ、女の子が女の子に恋しちゃったなんて、誰がどう見ても気持ち悪いよ』

『めだかちゃんはさ、とってもとっても優しいから口にしないだけで本当は気持ち悪いって思ってるんだよ?』

『かわいそうななまえちゃん。もうめだかちゃんと一緒にいられないね』

なんでこんなことしか言えないんだろう。もっともっともっと言うべき言葉があるはずなのに、先の尖った見えない螺子がなまえちゃんの心を突き刺していくのが自分のことのようにわかった。
僕の言葉に素直な反応を示す彼女の吐息は、プールにでも沈められたように荒い呼吸を繰り返して、すがるようにもがくように自身の鞄を荒々しく手繰り寄せた。意識が朦朧とし始めた深海の中で酸素ボンベを見つけたように、震えた両手が取り出した大きなヘッドフォンを耳へと押し付ける。

『そんなもので僕から逃げられると思うの?』

壊れてしまいそうに震えた彼女はなにも答えない。小さなiPodを何度か取り落としそうになりながらもヘッドフォンと接続し、それをお守りみたいに体の前で握りしめている。こちらからは表情もiPodを操作する指先も見えない。大きな大きなヘッドフォンと、そっと触れただけで崩壊しそうな少女の後ろ姿だけが宗教画みたいな神々しさで夕日に照らされていた。

『聞こえないふりなんてさせないよ』

『君は歪んでいる。君は狂っている。君は病んでいる。』

『君はね、あの綺麗で強くて優しすぎるめだかちゃんにふさわしくないんだよ。自惚れているんだよ。思い上がっているんだよ。』

教室の空白に僕の言葉が吸い込まれてしまうと、ただでさえ耳障りなロックンロールがヘッドフォンから漏れ聞こえた。歌詞すら聞き取れてしまうほど大音量のそれを、なまえちゃんは狂ったみたいにまだボリュームをあげている。
もうやめなよ。強引にiPodを奪って思い切り踏み潰すと、コードのはずれた意味をなさないヘッドフォンをつけたままのなまえちゃんと目があった。怯え切った少女の瞳に見覚えはない。僕には目の前のか弱い人間になまえちゃんのわずかな片鱗も見つけられない。
もうやめなよ。もう一度、言葉に詰まったくちびるがうわ言のように繰り返した。僕自身だって、もう彼女を傷つけるのはやめればいいのに。

『だめな子だなぁ。僕がせっかくお話ししてるのに音楽なんて聴かないでよ。あ、そっか。なまえちゃんは認めたくないんだ。めだかちゃんに嫌われちゃったこと。めだかちゃんと友達でいられないこと。めだかちゃんが自分を愛してなんかいないこと。』

濡れた下まつげが薄い皮膚に貼り付いて、一層黒く長く見えた。紙みたいに白い頬に紫がかったくちびる、焦点のどこか合わない視線は、神経が弱り切った人間のそれだった。震えながら両耳にヘッドフォンを押さえつけた彼女は、ひたすら僕のほうを見ないように視線を泳がすばかりでなんとも言葉を発しない。
誰がどこからどう見たって彼女の心は満身創痍だ。傷ついて後悔して自己嫌悪して、なまえちゃんはめだかちゃんを愛してしまった自分を心の底から責めていた。深く愛してしまったがゆえに嫌われるのが怖くて、騙してしまったことが恥ずかしくて、もう友達でいられないことに絶望しているに違いないんだ。
そこまでなまえちゃんに想われているめだかちゃんが羨ましい。妬ましい。できることなら今すぐ首をへし折ってやりたいくらい憎い。
羨ましくて妬ましくて憎らしくて、僕だけが宇宙に取り残されたみたいにどうしようもなく悲しかった。

『なまえちゃん、』

目を閉じヘッドフォンに力を込めて、彼女は精一杯の拒絶を示していた。抜け落ちて宛もなく垂れたヘッドフォンの先が反射した夕日の色は、まるで僕のギラギラした攻撃性をそのまま写し取ったみたいに輝いている。
なまえちゃん。ねぇなまえちゃん。宝物みたいに繰り返す。宝物なのにどうして僕は傷つけてしまうかな。

『なまえちゃん、大切なことを言うよ。』

喉の奥が変に乾いて、唾液を嚥下すると少しだけ痛んだ。なまえちゃんもめだかちゃんに告白したときはこんな風だったのだろうか。いや違うな。緊張してドキドキしたかもしれないけれど、こんなにも心臓がズキズキ痛んだりしなかっただろう。
なまえちゃん。満身創痍で歪んでいて絶望しているのはね、君がめだかちゃんに叶わない恋をしてるって知ってしまった僕もなんだよ。

「僕にしときなよ」

ヘッドフォンを押し付ける指先は真っ白になるほど力が込められている。時計の秒針がうるさく等しい感覚で音を立てて、あとはなまえちゃんの痛々しい呼吸の音しか聞こえない。僕の懇願みたいな響きを持った短い言葉は大きなヘッドフォンに邪魔をされて、なまえちゃんに聞こえることはなかった。ただ叶わないのに彼女に執着する自分の惨めさを再確認しただけだった。
そうだ。僕はとても惨めだ。ずっとずっとずっとずっと、なまえちゃんがめだかちゃんに出会った時から、絶対彼女になんか勝てっこない僕はただひたすら惨めだったんだ。

「僕を選べ」

惨めで括弧悪くてめだかちゃんになんか死んでも勝てない僕を選べよ。僕のことが好きだって言えよ。僕のことが一番だって、君が言ってくれたら、そうすれば。
ヘッドフォンを押さえる細い指はもうほとんど折れそうなくらいに曲がっている。深く目蓋を下ろした彼女の世界に僕の姿はない。大きなヘッドフォンは空気を遮断して、精一杯の声すら響いていないのだろう。
無意識のうちに握りしめた制服の襟元に手の汗が吸い取られていく。そのすぐ真下、皮膚のさらに奥、そこがじくじくじくじく、さっきの比にならないほど熱かった。
僕は傷付き抜いた彼女を見ることすらやっとなくらい心臓が痛くて痛くて痛くて、また勝てなかった、なんて言葉を出す余裕はどこにもない。




罪なこと様提出


「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -