私の言葉にたっぷり五秒かけて振り返った彼女は記憶の中の彼女ではなかった。
いや。でも。そんなこと。諦めの悪い私はそれでも真実のすぐそばまで積み重なった僅かな違和感、小さな噂、自分の直感をすべて押し退けてまだ小さな希望に賭けようとする。"レイちゃんはレイちゃんである"と。
レイちゃん。もう一度、咎められることを恐れるように口にした。向けられた彼女の瞳からレイちゃんの欠片を探すように見つめ返す私は、けれど冷たい瞳のどこにもそれが見つからないことで焦燥と小さな絶望を感じ、結局最後には視線を彼女の足元に落とした。目の前の少女は僅かに怪訝な雰囲気を浮かべてこちらに向き直る。

「ごめんなさい。自分のことだとは思わなくて」

「……やだな、レイちゃん。考え事でもしてた?」

「いいえ。そんな名前で呼ばれるのは初めてだから」

喉の奥から空気を吸い込むような「え?」の音だけが彼女の告白に対して辛うじて吐き出された言葉だった。しかし深い穴へと落下していくような絶望に晒された心の何処かで、やっぱりそうだったのか、と妙にはっきりと納得している冷静な自分がいる。そうだ。私はきっと知っていたんだ。今朝彼女の後ろ姿を見た時から。いや、五日前警報が出た昼の、あの一際胸騒ぎがして落ち着かなかったあの時から。
目の前のレイちゃんと同じ姿をして同じ制服を纏った人形のように冷たい目の少女は、出会った時のレイちゃんと同じ感情の読み取れない視線で私を視界に映している。その姿はどの些細な点を取り上げても"綾波レイ"そのもののように見えた。
色素の薄い髪の光沢や、やんわり握られた両手や、少しまつげを伏せて他人と対峙する姿は記憶のなかの彼女とまったく瓜二つで、私の意思はまた揺らぎ、混乱する。
やっぱり私の勘違いだったのかもしれない。このレイちゃんはどう見ても私の知ってるレイちゃんだ。どこもおかしな点はない。なんて馬鹿なことを考えてしまったんだろう。レイちゃんが私との約束を破るわけないのに。
自分の心を欺くように暗示にも似たそんな言葉を頭の中で繰り返す。繰り返せば繰り返すほど目の前のレイちゃんは記憶の中のレイちゃんと重なり、不安は少しずつ霧散していった。やはり彼女はレイちゃんに違いない。私は変な思い込みをしている。きっと明日になったらこんな馬鹿馬鹿しい考えは忘れてしまって、いつものようにレイちゃんと楽しく過ごしているはずだ。
背筋が妙な汗でじっとりとしていた。危険信号にも似たなにかが、偽りの安心と知りながらそれに縋らずにはいられない私の内側にじわじわと染みていく。それさえ無視することに努める。

「言ってなかったもの無理はないわ。私は、」

「レイちゃんやめようなんだか変だよもっと楽しい話しようよ。ていうかさー、体育の佐々木がさー、レイちゃん休んだ時にさー、」

「彼女は死んだわ。あなたのクラスメイトの綾波レイはもう死んだの。」

「……やだレイちゃん、笑えないよ、なにそのじょーだん、」

「レイちゃんと呼ばれた少女はいないわ」

なんて冷たい瞳だろう。言葉も作り笑顔も心臓まで凍りついてしまいそうだ。出会った時のレイちゃんよりずっとずっと心がない目が私の怯えた視線を捉える。いや、レイちゃんよりもずっとこの子は空洞だ。まるで生まれてから一度も人の暖かさ、人そのものに触れていないような機械的な突き刺さる瞳だ。
違う。これはレイちゃんではない。レイちゃんにとてもよく似た誰か、何かだ。
急にさっきまでの穏やかさを失った危険信号が頭の中で頭痛のようにガンガンと響き出した。この女は偽物だ。この女はレイちゃんじゃない。レイちゃんはこの女じゃない。

なら本物のレイちゃんは?

私は鼓動のたびに痛む頭の中で本物のレイちゃんを思い出そうとする。そうすればこんなショッキングな事実に泣き出さないで済むように思えたからだ。レイちゃんの声。レイちゃんの言葉。レイちゃんの微かな熱。レイちゃんと最後に会った夜。それらは今目の前で起こっているかのように頭の中で鮮明に思い出すことができた。忘れっぽい自分にしては怖いくらい正確にあの夜のことを覚えているのは、レイちゃんとはもう会えなくなってしまうことを動物的な勘で予期していたのかもしれない。だからあんな約束を無理矢理彼女と交わしたのだろう。

「だめよだめよだめよ」
あの日私は彼女に向かってそう言った。何回も繰り返し言った。レイちゃんの白より白い手首を縋るように掴んで言った。
「約束よ約束よ約束よ」
その言葉だって百回は言った。繰り返せば果たされるかのように何度も繰り返した。掴んだ彼女の手首は力なく垂れ下がって、無感動にそれを見るレイちゃんの瞳を思い出すことも簡単だ。
いや、その時の彼女は無感動なんかじゃなかった。うさぎみたいな燃える赤色の瞳はあの少女のように機械的なものではなく、確かな熱をその奥に湛えていた。レイちゃんは突然大真面目な話を始めた私を見て少し瞳を大きくし、そしてそれが二人にとってとても大切な約束だと理解すると、言葉を我慢するようにくちびるをきつく結んだ。その約束を果たすことがとても難しいことだって、彼女は強く理解していたに違いない。
それはいつものレイちゃんだった。形だけじゃない。全身から醸し出す雰囲気、無垢が宿る視線、私の下の名前を少し遠慮がちに呼ぶ声、それらは正しく私がレイちゃんと呼ぶ世界にただ一人の綾波レイという少女だった。

まるで世界は無音だった。身体中に鼓動が生々しく波紋を広げるだけで、すぐ横を流れて行く風の音も、遠い放課後の生徒たちの声もまるで聞こえない。
レイちゃん。私は本当のレイちゃんと向かい合っているかのように目の前の少女をそう呼んだ。馬鹿みたいに頑固に名前を呼ぶ私を、彼女はなんの感情もこもらない表情でただ、本当にただ視界に写すことだけをしていた。研究者が実験体の下等生物を眺めるように、その目にはほんの僅かな感情もこもっていない。

「……レイちゃんは、レイちゃんなんでしょ……?」

やっと伝える意思を持って発したその言葉は自分でも驚いてしまうほど上ずり、震え、舌足らずだった。まるで化け物と対峙してしまった子供の言葉のように混乱した声で、少し考えてやっと意味がわかるほどだった。
目の前の少女は先ほどから1ミリたりとも表情を変えず、マネキンのようにただ一点を見つめて動かない。彼女の沈黙が私を一層不安にさせる。瞼を開いて彼女を見つめることすら怖くなる。夢であってくれ、とこれ以上ない強さで願いながら、震えるくちびるをなんとか動かす。

「最後の約束、覚えてる……?」

世界中が怖くて、風も木も地面も人も音も熱も心臓の鼓動も怖くなって、助けを求めるように彼女の腕に手を伸ばす。指先をそっと乗せるようにして触れた、白より白く指が回せるくらい細い、傷もくすみもない華奢な手首は、私の指によく馴染むレイちゃんの手首にとても似ていた。
でも違う。ぜんぜん違う。今手の中にある白い手首は、あの夜どこにも行ってしまわないように掴んだレイちゃんの腕とはなにかが決定的に違っていた。この腕の持ち主は私のことなんかなにひとつ知らない。顔も名前も初めて見る、赤の他人と言っていい人間なのだ。私が初めてレイちゃんと会話した日のことも、体育の時は必ず一緒に見学したことも、空き地の猫に餌をあげ続けたことも、ましてや彼女と交わした大切な最後の約束なんて、この子が知るわけもない。

「(レイちゃんはもういない)」

ついに泣き出してしまった私に、見知らぬ少女はやはり何も言わなかった。ただ力なく彼女の手首に巻きつく私の手をそっとほどくと、獣のように泣きじゃくって頭がどうかしてしまった私を置いて、なんの感情も浮かべずうつくしい姿勢のまま遊歩道を歩いて行った。涙のなかで歪むその後ろ姿はここにいない本物のレイちゃんみたいで、私は吐き出してしまいそうな嗚咽をあげる。

最後の約束覚えてる?
ねぇレイちゃん。最後の約束、覚えてる?

「(だめよだめよだめよ。絶対に私の前からいなくなったりしちゃだめよ。約束よ約束よ約束よ)」

私の前からいなくならないでって約束した私のこと、あなたはちゃんと覚えてる?





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