駅を出ると空は輝く橙色をしていて、改札を出てまともにその光線を浴びてしまった私は、両目をじっくり数秒間伏せて透明な刺激から逃れた。ああまぶしい。手で庇を作り、軽いめまいのような感覚の中、ローファーのつま先ばかり睨んでお市ちゃんの影を頼りに歩く。数十センチの間隔は近いようで遠い。でも、それが気まずく感じられないのは、それだけお市ちゃんと私の心の距離が短いからだろう。無理に話題をひねり出したり、嫌われているのかもしれないなんて余計なことを考える必要もないくらい、私たちは気を許し合っている。お市ちゃんだってきっとそう思っているはずだ。わざわざ口に出すようなことを彼女はしないし、私もそんなさぐり合いのようなことは絶対にしたくないけれど、少なくとも自分のことに関しては、お市ちゃんと一緒にいるときの私がどの場面の私より好きだ。私はこの子と親友なのだ、と誇らしさに満ち溢れて、どんなに嫌なことがあっても上履きの中に入り込んだ砂粒くらい小さなことのように思えるし、アンダーラインが綺麗に引けたくらいで最高に幸せな気持ちになれる。私は世界中の誰でもなく、お市ちゃんがクラスメイトで、友達で、親友であることに、こんなに恵まれていていいのだろうかと時々怖くなるほどの幸せを感じている。いつかしっぺ返しがくるのでは、そんな恐怖はしかし、お市ちゃんと学生生活を送る私の前ではやはり小さな砂粒に等しいのだった。

 庇を作った右手の上、小指のあたりにふと違和感を覚えた。なんとなく、足がたくさん生えた名前も知らない虫がそこに乗っているような気がして、今まで包まれていた幸せな考えを捨てて足を止める。気味が悪い感覚を吹き飛ばすかのように、水に濡れた犬みたいにぶるぶると手首を振り回す。関係のない左手も、頭まで一緒に左右に振った。本当に虫が乗っていないとも限らない。そう思うと踵から首筋までがぞくりと震えた。
 私が一人で手や頭を振り回しているうちに、気がつかなかったのだろう、お市ちゃんが先を行ってしまっている。その背中はいつものように控えめに丸くなっていて、彼女の前から夕日の橙色が照射されていた。眩しくて、ほとんど顔を覆うようにして庇を作る。ふと、顔の前に傾けた手のひらの中に黒色の糸のようなものを見つけた。

「……つるちゃんあのね、」

 黒い糸に気を取られた私の耳には、お市ちゃんの控えめな声が一層小さく高く聞こえた。お市ちゃんなあに。開いた距離を小走りで縮める私にも彼女は気づいていないようで、長く伸びた影を上下に揺らして先を行く。地平線近くの太陽は橙色なんてものじゃなく燃えるように真っ赤で、ぎりぎりまで細めた両目の中で、お市ちゃんの形がただの黒い塊に変わる。夢の中で走っているような、どこにもたどり着けないような、そんな寂しさがふっと全身に広がった。

「……いいよ、」

「え?」

 なにがいいの?力を込めたローファーのつま先が、たんっ、とコンクリートに弾む。駅の方へずっと伸びていく彼女の影へ身を隠し、待ってと言うように笑いながら鞄のキーホルダーをやんわり掴んだ。スイッチを切られたロボットみたいに、お市ちゃんの影がぱたりと歩くのをやめる。

「市のこと、嫌いになってくれていいよ、」

 どしん。何かがぶつかってきたような衝撃を受けたけれど、実際はなにも起きてはいなかった。確かな痛みはそれでもすぐに消え去って、私は脳天気に口元で笑いながら、これは聞き間違いにちがいない、とわざわざ考えるまでもないほどそう認識していた。ずっと脳天気に笑ったまま、なあに、と聞き返し、彼女の顔をのぞき込む。
 無神経な笑顔をたたえたままのぞき込んだお市ちゃんの表情は、目は、くちびるは、緊張したような、恐怖で動けないような、恐ろしい覚悟をしたような、ともかく普段のほっこり笑っている彼女に似つかわしくない殺伐としたものだった。激しい光線に晒されながらも、私の目は彼女の異常を察知しようと無意識に大きく見開かれる。市のこと嫌いになってくれていいよ。嫌いになってくれていいよ。くれていいよ。お市ちゃんのその声だけは沈黙が重なることなくぼやぼやといつまでも辺りに漂っていた。時間が静止して、衣擦れみたいに小さなその声は、私の周りでゆったりと浮遊している。どうして。頭の中で誰かが言う。浮かんでいたお市ちゃんの言葉は煙のように渦を巻いて、再び動き出した時間と共に、波が引いていくような素早さで後ろへ流されていく。
 どうしてそんなこと言うのだろう。私が何かしただろうか。今日何かあったのだろうか。誰かに妙なことを言われたのだろうか。見当もつかない。ずっと一緒にいるのに、何一つ理由らしいものが思い浮かばない。
 強く握りしめた手の中がむずがゆくなる。汗がじわじわ滲んでいくのがわかる。お市ちゃんの自信がなさそうにうつむいた、けれど、確かに何かを内に秘めているまなざしや、真一文に結ばれたくちびるは、石膏像のように固まっている。

「(なんでそんなこと言うの?)」

 ねえなんで私に、親友の私に、どうしてそんなこと言えるの?
 傷つけられた気持ちで一杯だった。裏切られた。ひどい。あんまりだ。そんな許可いらないよ。されたくないよ。あなたからされたくなんかなかったよ。橙色の中で空気が小さく震えたのがわかった。私の泣いてしまいそうな喉が吐息だけの嗚咽を吐き出したからだ。
 私はこんなにもお市ちゃんのことが大切なのに。だれよりお市ちゃんが大好きなのに。どうしてわかってくれないの。嫌いになっていいなんて、どうしてそんなことが言えるの。二人を分かつように冷たい風が耳をなでていく。夏でもないのに汗ばんだうなじを、なだめるように通り過ぎる。夕日の赤が目に痛くて、体中が熱くて、手の中がもぞもぞして、めまいがしそうなほど不快だった。風に吹き上げられたお市ちゃんの長い髪の毛が、私の頬をさらさらくすぐる。生きているみたいに、熱い頬をなで上げていく。

 そんなことなるわけないじゃないですか!怒りや悔しさや悲しみや、沸き上がったそんなもの達が混ざって叫びだしたくなった。けれど喉から飛び出したのは小さく空気を飲み込む音だけで、押さえ込まれた感情の波は、肺の底から湧きだした泣き出しそうに冷たい一色に塗り変えられてしまう。
 お市ちゃん。こぼれ落ちた彼女の名前は、私が呼んだものとは思えないくらい弱々しい音をしていた。その言葉に、なんと続けたらいいだろう。

「お市ちゃん。」

「市のこと、嫌いになっていいんだよ、」

 まつげに乗った涙が見える。太陽を見つめる射抜くような瞳孔が見える。そのずっと奥の、影の塊のように黒いものの存在さえ、はっきりと私の心には見えた。それは小さくてやせ細っていて臆病に体を丸めている、けれどどこまでも落下していきそうな濃厚な色をした闇そのものだった。
 私はその正体を知っている。孫市先輩や長曾我部さんや鏡に映った自分の瞳の中にふいに現れる色だ。けれどそれらはもっと薄灰がかって小さくて、まばたきの間に消えてしまうほど些細な物なのに、お市ちゃんのそれはもっともっと根が深い。彼女の優しい心に住み着いて、ひどい想像ばっかり囁いて暗いところに引きずり込もうとしているのだ。どうせみんな自分を裏切るんだ、とか、だれも好きになってくれないに決まってる、とか、お市ちゃんに出会ってから私の中に現れるようになった灰色が囁くそんなことを。

「(お市ちゃんの怖がり。寂しがり。臆病者。)」

 私の言葉よりもそんな形のない冷たいものの言うことを信じてるんでしょ。どうせいつか自分に飽きちゃって嫌いになっちゃって忘れちゃうんだ、って思ってるんでしょ。悲しくなる前に寂しくなる前に辛くなる前に置いてきぼりにしちゃおう、って思ってるんでしょ。
そんなの、そんなのひどい。

「(親友だって、そう言ったのに。)」

 たくさんたくさんお話したのに。いっぱいいっぱい笑いあったのに。友達になれてうれしいって、そう言ったのはお市ちゃんの方なのに。ひどい。ひどいよ。
 大嫌い!揺らめく髪の毛を思い切り引っ張って感情に任せて叫んでやりたくなった。熱くなったくちびるが小さく震えて痛いほど真横に引き延ばされる。
 だいっきらいですお市ちゃんなんか!そう言えばいい。私がどれだけお市ちゃんの一言に傷ついたか、どれだけお市ちゃんが大切だったか、裏切られた気持ちの深さを知らしめるように叫んでやったらいい。のどの中が呻くように小さく震える。言われなくてもお市ちゃんなんか嫌いです!だいっきらいです!そう言って欲しいんでしょう。ずっと怯えて暮らすよりなんにも持っていない方が楽なんでしょう。もう友達ごっこなんて嫌なんでしょう。噛みつきそうに震えるのどから漏れ出す吐息は、小さな嗚咽に変わって、彼女を傷つけるどの言葉も吐き出してはくれない。

「(どうして私の大好きを信じてくれないの?)」
「(私の言葉がいけないの?)」
「(心を取り出したら信じてくれるの?)」

 お願い、先に声を出したのはお市ちゃんだった。真一文に結ばれていたくちびるは、一度動き出すと痙攣したように幾度も震えた。薄暗くなりつつある街の空気が同調してひりひりと震える。私ののどもつられて震える。悲しくて可哀想で辛くて、際限なくがたがた震える。

「鶴ちゃん、お願い、市のこと、嫌いになって。」

「嫌です。絶対嫌。いやいやいや。嫌。嫌だって、言ってるじゃないですか!」

「……市も嫌なの、お願い、」

「いやっ!やです!やだやだやだ!そんなのひどいですっ!」

 やだもん嫌だもんそんなの絶対だめだもん。
言葉の隙間が見つからないほど子供のような駄々を喚き続けると、言葉は意味の成さないただの音としてくちびるからこぼれていくようになった。頭でなにか考えるより先に、感情が先走って言葉が漏れていく。湧きだした涙がころころ頬を伝って、流れた軌跡から火が出そうに熱い。薄闇に染まる顔の形をたくさんの水滴が撫でていく。そこにいるお市ちゃんの形を確かめたくて手を伸ばすと、こちらを見つめる丸い瞳の中で、あの黒い物が怯えるように一層縮こまるのが見えた。汗ばむ両手を冷たい皮膚に添えて、まん丸に見開かれた瞳を持つ彼女の顔を包み込む。
 大丈夫、手を振り払われたりはしない。お市ちゃんは私を嫌ってなんかいない。

「本当はっ、友達でいてほしい癖に!」

「……ちがう、」

「わっ、私のこと、大好きな、癖に!」

「……違う、違うわ、」

「嫌いになってだ、なんて、全く思ってない癖に!」

「鶴ちゃんに、なにがわかるの……?」

 だってだってだって。獣のような嗚咽が押さえられなくなって、もう私の言葉は音すらも成していない。
 涙で顔中がぐちゃぐちゃだ。病気を患ったように喉の奥や瞼の裏や頭の中が熱い。言葉どころか満足に呼吸もできず、震えるくちびるを自分の意思で動かすことすら困難だった。
 わかるもん。私にはわかるんだもん、言葉を出せなくなった私は心の中でそう思う。焼かれたような頬に幾分冷たくなった風が心地良い。さっきまであんなに大きく赤い太陽が私たちを照らしていたとは思えないほど、夜の闇は濃くなりつつある。右手で涙を拭きながら、改札を出たときの痛いほどに眩しい光を懐かしく思った。ずっとずっと遠い昔のことのように、ずっとずっと遠い昔に同じことがあったみたいに、ただ漠然と切ないほどの懐かしさを感じた。軽く握った右手の中から黒い糸が垂れている。細くて黒々としていて、お市ちゃんのしなやかな髪の毛みたい。

「(私にはわかる。わかるんです。)」

 だってそうでしょう。本当に私のことが嫌いなら、私の手をつかんで離さないこの影について、どう説明してくれるって言うの。



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