冷たい空気の出る高さ1メートルほどの箱の名は、「れいぞうこ」というらしい。
人間の世界のものは腐りやすく、みずみずしい形をとっていられる期間を延ばすためにれいぞうこで冷やすのだそうだ。
私達にはみずみずしい形をとっていて欲しいものなどほとんどない。したがって、この部屋に備え付けられた白い箱が緩やかな音を立てて作動し続ける必要などないのだ。ないのに。

それは一月ほど前唐突にやってきた。私はソファーに座って、マスターの大きな手に収まった透明の容器のそれを見ていた。なにか、なにかに似ている。確かな既視感と共に、それが白い扉の奥に収められるのを見送ったのだ。
それに関してマスターはなにも言わなかった。ただれいぞうこから伸びる白い管を壁に入れて、私にはその正体も必要性も教えてはくれなかった。生き物の研究か、新兵器の開発か、それとも他のなにかなのか、ひとつも知らされないまま私はリビングの奥に不気味な違和感を抱えることとなった。

既視感の正体に気付いたのは淡々と続く毎日のある午後だった。私はやはりソファーに座って、人間が作る「てれびほうそう」とやらを眺めていた。
色の着いた物語である。画面の中の男が、私たちの使う武器に似た黒い筒を振り回し熱弁していた矢先、隣の男の頭が吹き飛んだ。黒い筒は、確かに私の知るあの武器の派生らしい。急に画面の中に赤味が増した。テカテカしていてブヨブヨしていて、それはあの、れいぞうこのなかの赤いものに、とてもよく似ていた。

「(あれは人間の中身だったんだ!)」

何かが降ってきたように直感した。いつか私が捕らえられたとき、それを見たことがある。人間の表面は白やら薄い黒やらの皮が張り付いているのに、中はみんな同じく赤いのだ。
だから、だからつまり。
背中に氷が滑り落ちたように、冷たいものが駆け巡る。

「(れいぞうこの中身は人間のもとだ。人間のもとはほうっておくと、きっと白や黒の人間になる。人間になったら私をつかまえる。マスターもみんなつかまえる。つかまえて、きっとぜんぶ殺される。)」

どうしよう。
恐怖が全身を満たしていた。すぐに逃げ出せる姿勢でれいぞうこを睨む。じっと耳を澄ますと、てれびのなかの激しい音の隙間に穏やかな低い作動音が聞こえる。
どうしようどうしよう。あの透明な容器の中で人間が育っていたら。寝ている間に大きくなって、私やマスターを襲ってきたら。
奥歯がぶるりと震えた。確かめなければ、そう思い、ふにゃふにゃとした足に力を加えてれいぞうこまで進む。そっと、ただひとつの扉に耳をあてるると、そこからは宇宙にいたときにひっきりなしに聞いていた落ち着く作動音が絶えずしていた。れいぞうこ自体がなにかひとつの穏やかな生き物のようで、とても人間のような恐ろしい生物を抱えているとは思えない。
恐る恐る扉に手をかけ、そっと扉を開く。

幸いな事に、赤いものは赤いまま、透明な容器に収まっていた。


そうして、諾々と過ぎていく毎日は一変した。危険な生物がれいぞうこに住んでいる。その事実は退屈な午後をスリリングで落ち着かないものに変えてしまった。
マスターのいない時間、私は決まってれいぞうこの前に座った。しゃがんだ自分より少し大きいくらいの箱から発せられる作動音を聞きながら、赤いものが人間となって出てくるときに備えた。そして、一日に何十回も扉の中の生き物に変化がないか確認した。髪が生えたり大きくなったり目玉ができたりしていないかだ。もちろん夜は一層落ち着かず、寝室のドアをしっかり閉じ、絶対にマスターよりもドアに近い位置を陣取って、もしもやつらが襲ってきてもマスターだけは助かるように気遣った。

毎日を積み重ねるとあっという間に一月経った。今朝、れいぞうこの人間のもとに変化が見られた。

「(白くなってる……。)」

赤い色は酸化したのか徐々に黒ずんではいた。しかし今朝、仕事に行くマスターを見送ったあと、毎日続けているれいぞうこの確認作業に移ると、赤いもののてっぺんにもやもやと白いものがかかって、明らかに変形していた。

ついに人間になるんだ!
私は恐怖した。れいぞうこの前に座って息さえ殺しあの恐ろしい人間が現れるのに備えた。昼も夜も、じっとしゃがんでそうしていた。基地に出掛けたマスターが帰ってこなかったのは少し心細かったけれど、なにかあったときに好都合だと考えれば、使命感のような何かが湧きあがった。

一晩中れいぞうこの前に座って、次の日の朝もそうしていた。昼頃、人間に動きがないことを不思議に思い、29時間ぶりにれいぞうこを開けた。やはり上の部分に白いものが積もっている。そしてその量は昨日よりも明らかに増えていた。
これから人間になるのだ。背骨が震えて肩が冷たいものになでられる。
恐ろしいスピードで、まず髪の毛から。次に額ができあがって、目、鼻、口、上から順番に薄い皮膚をまとっていき、最後に足の指先が出てくる。透明の容器を静かに砕き、れいぞうこの中にしゃがみこむ形で、ぎゅうぎゅうに詰まった体を抱えている。
今の自分と同じ姿勢を保つ生き物が白い箱の中で窮屈に呼吸をしている様を想像した。気持ち悪い。肩を這う言いしれない嫌悪感と恐怖に耐えられず、リビングを突っ走りソファーの後ろに隠れる。

じっと呼吸を殺して、ついに日が傾いた部屋の中はぼんやりと暗くなる。ドアの向こうに気配を感じ、泣き出しそうなほど安堵したけれど、マスターが原始的な鍵を開く間も、れいぞうこをを凝視して離さなかった。
疲れたように扉をくぐったマスターは、ソファーの後ろで震える私を訝しく思ったのか、同じようにしばらくれいぞうこを見て、それから口を開く。

「冷蔵庫が、どうかしたのか?」

「……なか、いっぱいに、なってる。赤いのが、成長してる。」

久しぶりに開いたくちびるからは途切れ途切れのそんな言葉がこぼれた。マスターはそれを真剣に聞いてそっと立ち上がる。私は勇敢なマスターがれいぞうこを開けようとしているのだと理解した。だめ。人間が出てくる。マスターが、襲われてしまう。
私はマスターの腰にしがみつくようにして着いて歩いた。目が開いているのか閉じているのかわからないほどマスターの体に顔をくっつけ、あの作動音が近づく度に胸の鼓動を大きくさせる。

もうどれだけ大きくなっただろう。すっかり成長しきって私たちの会話さえ聞いていたのかもしれない。武器を構えて今か今かと待っているのかもしれない。それとも成長に失敗して、またあの赤いどろどろに逆戻りしているのかもしれない。
マスターが扉に手をかける。出てくるのは薄い皮膚をまとった体か。てれびでみた黒い筒か。それとも赤い水か。

「あー腐っちまった。スタースクリームの手作りジャム。」

そう言ったマスターの声は、別段恐怖を感じているものでもなかった。
私も恐々れいぞうこを覗くと、やはり一月前と同じ位置に人間のもとが置いてあった。上の部分が白く、つやつやと赤く輝いていた全体はすっかり茶色く変色している。

「ジャムが腐ってるのが嫌だったのか。」

「じゃむ、」

「イチゴジャムだ。パンにつけたり紅茶に入れたりするとうまいらしい。」

俺たちは食事を必要としないが、そう言ってマスターはじゃむと呼ばれた人間のもとをごみ箱へと放り込んだ。
どうやら、人間のもとは人間になり損ねたようだ。私はずいぶんと、涙が溢れてくるくらい安心した。これで明日もあさっても元通りの退屈な午後が約束されたのだ。

「ジャムが食べたかったのか?」

「いや、あかいの、きらい。」

「じゃあ次は別のものを頼むか。」

別に無理して頼まなくても、私たちに食べるものはいらないのに。そう思うけれど、マスターがなんだか機嫌よさそうに笑うから、私はノーとは言えずにことんと頷く。
それにしてもああ疲れた。人間のもとにはもうこりごり。



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