「痛い?」

「痛クナイ。」

「痛いでしょ?」

「痛クナイ。」

「痛そうよ。」

「痛クナイッテ。」

寂しい背中にそう言い切られてしまうと、もうなんにも言えなくなって体の中がつんと冷えていく。必死になってなにを守っているのだろう。決して大きくはない背中に再び問いかけることすらできないまま、腕の青痣へと氷を当てる彼をただ見ている。それ以外今この場にふさわしい行動を思い付けない。

「(あたし知ってるんだ。あの一番体の大きい奴。)」

名前はスタースクリームというんだ。フレンジーがよく愚痴をこぼしていたから、その大仰で長ったらしい名前はいつしかあたしの記憶に根を張った。
あたしは数回しか面識のない男に、フレンジーが言う通りのプライドが高く、狡猾で、暴力的だという印象を持っている。しゃべったことなどない。とにかく第一印象で嫌いなのだ。

「(そうよあいつよ、あたし知ってるんだから。)」

知ってるんだからね。
あてどなく手元の紅茶を混ぜると、スプーンと陶器の触れあう高い音が規則的に上がった。砂糖はもう溶けきっているし、もとよりなにかを溶かしきる温度などなくなっているから、混ぜる必要などない。真っ暗闇に近いこの部屋に自分が存在していることを忘れられないよう、あたしはスプーンを回す手の動きを止められないでいる。
ふいにカップの中の液体が外の丸い衛星を映し出していることに気がついた。まただ。明日が近付いてしまう。

「あたし知ってるんだから。」

声は呼吸さえも苦しくなってしまう重い黒の中をまっすぐに進んで行った。彼はまだきっと痛む腕に氷をあてているのだろう。そしてあたしのスカスカな脳味噌では考えつけない何かを延々思考しているに違いない。

「あんたスタースクリームに殴られたんでしょ。この間もバリケードと遊んでて怪我したって言ってたけど、あれも嘘でしょ。」

あんまりにも無音なものだから、私の方が暗闇でやっと見える背中を見失ってしまいそうになった。黒に取り囲まれた狭い背中である。そこについたたくさんの傷だって、フレンジーが思っているよりもずっとずっと知っている。

「三日前も五日前も七日前もよ。あたし数字を記憶するのはちょっと得意なんだから。五日前は転んだって言ったわ。七日前は上から物が落ちたって言ったわ。」

全部全部嘘なのね、しおらしい声を作った。彼の嘘はあたしを気遣ってのものだと知っている。だから少しも悲しくなんかない。彼は優しいのだ。優しすぎて悲しいと言ったら、それは恐ろしく的確にあたしの心情を射抜いている。
暗闇の奥で小さな塊が息を吹き返したようにそろそろと動く気配がした。普段はかわいげのない態度をとるのに、あたしが弱った素振りを見せるとどれだけ自分が辛くてもきちんと反応をくれる。やはり彼は優しい。だから一層胸が痛んで、喉が小さく震え出す。

「……ゴメンマギー」

「ごめんじゃないわ。ごめんじゃないの。」

声の震えが悟られないよう語尾を小さくすると一層悲しげな音になった。ごめんだなんて違う。そんなの、まったく違う。違うのよ。

「……機体ガ小サイト、マア、色々アルンダ。」

「そんなの、殴っていい理由にはならないわ。」

「俺ダッテ楽シイ訳ナイゼ。ヤバソウナ時ハアイツニ会ワナイヨウニシテルンダガ、ドウモ上手クイカナイ。」

「逃げちゃえばいいのよ。」

「逃ゲランネェヨ。スタースクリーム、最近カナリ機嫌が悪クテ、逃ゲタラ後ガヒドイ。」

明日ガ来ナケレバッテ思ウヨ、そう言ったフレンジーの声も、言葉の最後が小さくて悲しい音にしかなっていなかった。闇に取り囲まれた彼の表情は見えない。見えないけれど、きっと色素の薄い睫を伏せて、絶望に近い何かを噛みしめているに違いない。大切なことは全部全部、あたしには内緒にして。
熱くなった喉が情けない音をあげそうになった。両手で口を押さえつけて酸素ごとそれを飲み込む。そのまま熱を持ってうるんだ瞳を閉じ、小さな体が大きな機体によって殴りつけられる様を思い浮かべてみた。腕の痣もくちびるの裂傷も頬の腫れも背中の世界地図のような痕も、全部全部全部だ。しかしそれら全てを思い出しきれないうちに口の中がおかしくなって、べたべたするなにかをしきりに吐き出したくなった。
逃げちゃえばいいのに。逃げちゃえばいいのよ、フレンジーは。

「(遠くに遠くに、絶対に捕まらなくて明日が永遠に来ないところに逃げちゃえば、そうすれば、)」

カーテンの開け放たれた窓からほの暗い月光が入り込む。なんて冷たく寂しい光だろう。こんなもの、消えてなくなってしまえばいいのに。フレンジーの言う明日も明後日も朝も夜も、みんな来なくなってしまえばいいのに。
地球から、久しぶりに出した声はどこかかすれた音になって、無言の部屋を這って進む。風邪を引いたような情けない、あたしらしくない声だった。

「地球から、出てしまえばいいんだわ。」

「ソンナコト、デキルワケナイ。」

「できるわよ。あんた賢いもの。あたしもちょっとだけ賢いから、できるわよ。」

だけど、賢いからわかってしまう。フレンジーだってあたしの言葉を丸飲みするはずない。いくら彼が賢くても地球から出るなんてそう簡単に出来はしないのだ。彼に何一つ優しくないこの世界から逃げ出すことは、あたしたちの力ではきっとやり遂げられないだろう。あたしが一緒となればなおさらだ。しかし救いがひとつだって見つからないよりはずっといい。ずっとずっと、いいに決まっている。
逃れられない現実から目を逸らすように、くらいくらい闇の中と変わらない瞼の中でまたひとつの想像をした。平坦な地面はどこまでも広がっていて、気味の悪い生き物の存在はひとつもなくて、地球のどこよりも澄み切っている、そんなうつくしい星。

「きっと逃げられるわ。」

「マギー、」

「きっときっと、できるわよ。」

そうすれば願いが叶うかのように呪文を繰り返す。フレンジーも瞼を閉じてうつくしい星を見つめたらいい。目を刺す鋭い光の存在しない優しい黒一色の世界を。遥か遠くに漂う惑星達を。誰にも脅かされることのないたった一つの静謐な空気を。

「二人で逃げましょう。ずっとずっとずっと遠くへ。」

頭の弱い女になりきってそう言うと、ひどく自分が哀れな人間のように感じられた。けれどだからなんだというのだろう。ほんの僅かでもフレンジーが救われるのなら、あたしはなんにだってなってやる。
ふいに暗闇から伸びてきた温かいものが指先に触れてゆっくりと瞼を開いた。そこには瞳の中と相違ない闇が広がっているだけでなにも見えはしない。けれどあたしはこの気配をよく知っていた。重ねられた手を握ってその形を確かめる。

「ソウダマギー、一緒ニ逃ゲヨウ。」

「フレンジ、」

「俺モ賢イ。オ前モ賢イ。必ズデキルサ。遠イ遠イ星ニ行コウ。」

そんなこと、出来やしないってあんた知ってるじゃない。あたしを気遣って嘘をついてみせる彼が悲しくて、思わず瞼の端から涙がこぼれた。くちびるがわなないて格好悪い顔になって、いくつもこぼれてくる涙を見られないよう俯きながら手を引き寄せる。骨の浮いた手の甲はあたしにされるがまま引きずられて、それから空元気のようにしっかりと握り返した。

「泣クナヨマギー。イイ星ガアルノ知ッテルゼ。」

「うん、うん、」

「酸素ハ少シ薄イカモシレナイガ、オ前ガ呼吸デキル機械ヲ作ッテヤル。」

「うん、うん、」

知ってる。わかってる。
あんたにもあたしにもそんな機械は作れないの。遠くの星へ行く手段も持っていないの。針の先より小さな星を見つけることさえ簡単じゃないの。そんなことくらい、知っているんだから。全部全部わかっているんだから。
俯いてしっかと手を握った。それは悲しいくらいに優しいフレンジーを抱きしめる代わりのようでもあったし、なんにもできない自分を責めているようでもあった。

天使でも悪魔でもサンタクロースでも女神様でもなんでもいい。どうかどうか、こんなに優しい彼が幸せに生きていける星をください。
それができないというのなら、せめて今だけは幸せな空想の星をあたしたちに見せていてください。



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