入って来ないで、クローゼットの扉を隔てたほんの近くからさやかの声がする。張り詰めて張り詰めて、今にも爆発して粉々の欠片になってしまいそうな声だった。バラバラで、でもキラキラした無数のガラス片みたいな、二度と組み立てなおせないものの象徴。
ほんとに馬鹿なやつ、アホなやつ、愚かなやつ。いつものあたしらしくそんなことを考えてみるけれど、それが何か別の言葉を打ち消すためのデタラメだとふいに気がついてしまったのは、あたしの方こそバラバラのキラキラの欠片になってしまいそうなほど心臓が張り詰めてどうしようもないからだ。
クローゼットのかすれた金のノブに手を伸ばすと、見えてもいないのに牽制の声が飛んだ。開けたら許さないから。なんて、小学生の女の子みたいだ。

「百年の恋が核爆発起こしたみたいな声だね」

「どっか行ってよ」

「どこも行かねえ」

扉の向こうでさやかがぐっと空気を飲み込む気配がした。ケンカばっかのあたしに構うことすら難しいほど彼女は疲弊しきっているらしい。あたしはあたしの皮肉屋なくちびるが一層彼女の心を引っ掻くようなことを言わないようすべての神様に祈る。

「あんたってほんと馬鹿だよね。いっつもそうだ。大切なお友達なんかにオイシイトコあげちゃってさ、貧乏くじばっか」

「八方美人の笑顔浮かべて大丈夫ぶるから相手も本気にしやがんの。で、あんたがいいならっつってあんたの献身も気遣いも優しさも当たり前だったみたいに忘れちゃうんだよね」

「ありがとうの一言もなく。さよならだって言わないで。あの男だってきっとそうさ。なーんも知らないで新しい恋人と幸せにやってくだろうさ」

救いようのない馬鹿のあたしは一度口にしてしまわないと言葉の善悪も判断できない。ああもうこのくちびるったら!
やってしまった、と唯一言葉を口にするあたしがくちびるを押さえて口を噤むと、部屋の中は不気味なくらいの無音になった。クローゼットのなかは人一人分の気配がするだけで耳を澄ましても呼吸の音すら聞き取れない。次第にその気配すらどんどん感じ取れなくなって、あたしは、もしかすると本当に彼女の心が砕け散ってしまったのではないかと不安になった。
なんてことだ。あたしがしたかったのはこんなことじゃない。あんたの弱みにつけ込むためでも、あんたの心を粉々にするためでもない。
ねぇだって、あんたは知ってるかな?泡になってしまう前の人魚姫にはね、心から心配してくれる優しい友達がいたんだよ。

「あたしはあんたと違うから、他人に嫌がられたってやりたいことはやるんだからね」

でも、さやかはあたしにとって他人なんかじゃない。だからあたしの手は笑えるくらい震えていた。頬は硬くなって心臓は早鐘を打って喉が痛かった。
金のノブを冷えた手で横へスライドすると、つま先からさやかの姿が現れた。少し埃っぽい、服やらストーブやらの物が置かれているわずかな隙間に、太ももを体にピッタリくっつける姿勢のさやかが収まっていた。あたしはその姿を見ただけでたまらなく泣きそうになる。

あんた大丈夫?痙攣したようになったのどで声を掛けようとした時、同じように上擦った声でさやかが言った。

「……あたしって、ほんと馬鹿」

救いようのない馬鹿なんだよね。わっと堰を切ったように泣き出した彼女の言葉は、ひどい嗚咽でよく聞き取れない。膝を抱えて、まるでたったひとりで世界中の苦しみを受け止めているみたいな泣き方。あたしまで泣きたくなってくる。

「も、ほん、と、馬鹿、あたしっ」

違う。あんたは馬鹿じゃない。あんたみたいな優しい子を馬鹿だなんて言う奴は間違ってるんだ。例えそれがあんた自身でも、あたしが絶対許さないから。
あたしは今度こそ考えなしなくちびるが思ってもないことを口にしないよう噛み付くくらいに口を噤む。

「……きょ、すけ、まだ、すっ、すきで、」

「取られ、た、って、お、思う、し」

「っひと、みは、とっともだ、ち、で」

「あたし、もう、わかんないよ!」

うん、わかるよ、さやかの気持ち。大好きで抱きしめたくてでもできない、ぶつけることのできないこの感情をあたしたちはどうしたらいいんだろうね。
あたしはくちびるをぐっと閉じたまま、さやかの隣に座り込んだ。それからずいぶん迷ったのち、彼女の肩に腕を回してぶっきらぼうに自分の方へ引いた。ぐちゃぐちゃに泣くさやかは素直に体を預けてくれる。
こんなにかわいくて優しくて誰よりいい子のさやかより他人を選ぶなんて、それこそ馬鹿のすることだ。クソ野郎の所業だ。地獄に落ちて百遍灼かれてしまえばいい。
あたしは肩にくっつくぬるい体温がもっと熱くなるように一層距離を詰める。ぎゅっとくっついて骨の形すらわかる位に。

ねえさやか、あんたの恋人になる人は世界一の幸せ者だよ。あたしが言うんだから、間違いなんてあるはずないよ。




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