顔を背けて鼻先に寄せられたスプーンを拒むと、銀色の光を弾いたそれがわずかに緊張しながら動きを止めた。
遠慮がちでありながら、しかししつこく口元へ寄せられるスプーンからはストロベリータルトの甘酸っぱい香りがして、丸一日なにも口にしていない俺の決意は思わずゆるぎそうになる。その奥にある悲しげな表情も俺を同情的な気分にさせる要素のひとつに違いない。

「善吉君、意地を張らないでなにか口にしないといけないよ」

「はは、俺はこう見えて少食男子なんでね。丸一日なにも食べなくても平気なんですよ」

言うと同時に腹が大きく鳴った。昨日の朝からなにも口にしていないのだから無理もない。そう自分へ言い聞かせても見栄を張った直後には恥ずかしいものである。宗像先輩の双眸を見上げると、そう、と先ほどよりも濃い影を目に浮かべた彼が俺を見おろしていた。俺の位置からでは確認できないが、スプーンを皿に置く音が聞こえたのでひとまずは諦めてくれたのだろう。不知火がヨダレを垂らして飛びつきそうなケーキだが、きっとこれも捨てられるに違いない。昨日から俺の拒んだ食べ物はすべてゴミ箱へと廃棄されている。

「あのー、もったいなくないっすか?」

「君が食べてくれたら捨てずに済むんだけど」

「じゃあせめて、あーん、っていうのやめてくれます?食べる時だけでいいんでこれをはずしてもらえると」

頭の上でつながれた両手を揺らすと、以前鬼瀬とひと騒動起こすきっかけとなったなんとか合金の手錠がガシャガシャ音を立てた。用心深い先輩は俺のサバットを警戒してか足にもなんとか歩ける長さの鎖がついた枷をはめられている。一体この警戒のしようはなんなんだ。第一俺は先輩の友人なのである。選挙の時も俺のことを心配して裏でいろいろ画策していたと安心院さんから聞いたが、これも俺のためを思ってしてくれているのだろうか。疑問は積もれどどうもこの人には強く尋ねることができない。先輩が俺の嫌がるようなことをするはずがないという保証のない信用がそこにはあった。

「手錠をはずすなんてできないよ。君は逃げるだろ」

「逃げないとは言い切れません。いい加減この姿勢も疲れてきたし、授業も無断欠席だし、生徒会の仕事もある。目的がなにか知りませんが、もうやめましょうよ」

「だめだ。絶対にだめだよ。君をここから出すなんてそんなことできるわけがない」

先輩はわずかに語尾を強め、憎しみや怒りに近い負の要素を秘めた瞳で俺をみる。能天気に構えていた俺は揺るがないその色に射すくめられたように交差した視線をはぐらかすことができなかった。その色の名前、感情の名前を記憶の中で探ろうとしたけれど、出てくるのはめだかちゃんとの付き合いでヘトヘトになった俺に優しく接してくれる数日前までの宗像先輩の姿だけで、目の前の男が一体何をしようとしているのかわからなくなる。
ただひとつ理解できたのは、遊びの延長でこんなことをしているわけではないということだ。

なんで、くちびるから零れたその言葉尻が微かに震えて、先輩に対して抱いていた信頼が揺らいでしまっている自分がいることを自覚した。わずかであろうと恐怖心の存在を悟ってしまうと、窓から差し込む暖かい光も、タルトの残ったスプーンの輝きも、目の前で仁王立ちをする先輩の姿もすべてが自分に対して悪意を秘めているような気になって背筋が妙にざわついた。

「だって、外には人間がいっぱいいて君をさらって行ってしまうかもしれない。殺してしまうかもしれない。君を君でなくさせてしまうかもしれない」

「……だからって、俺には家も学校もあるし、いつまでこんなことするつもりですか」

「ずっとだよ」

「ずっと」とは、一体どういうことなんだ。次の言葉を選ぶ俺を前に先輩は表情を和らげて片膝をつく。間近に視線が重なる距離で、お気に入りのぬいぐるみと楽しくままごとをしているような子どもの瞳が、さっきの台詞が冗談などではないことを示していた。
先輩は喜んでいる。安心している。俺をこの部屋に拘束することで歪んだなにかを満たそうとしている。

「俺たち、友達ですよね」

口をついて出た言葉に、先輩の表情はなにひとつ変わらないままだった。俺の不安を察知したように優しく頭を撫でるばかりで質問に答えようとはしない。その不自然な行動が余計に不安を加速させていく。俺と先輩はかつては敵だった。けれど今は和解して胸を張ってお互いのことを友達と答えることができるようになったのだ。はぐらかす必要なんてない。ただ「そうだよ」と肯定するだけでいいじゃないか。

「……先輩、俺、先輩の友達になれてよかったです。いろんなところに付き合ってもらって、話も聞いてもらって、慰められたり、本当に先輩が友達で良かったって思ってるんです」

「そう、僕も人吉君と出会えて本当に良かったと思ってるよ。君がいなくちゃ、僕は今頃どんな人間になっていたか、想像したくないほどだ。」

先輩の瞳は相変わらず柔らかい。無知な子供と会話するように、目にも言葉の端々にも慈愛が満ちている。

「でもそれは、君と僕が友達だからってわけじゃないんだよ。」

言ったそばから先輩の瞳が暗いものに染まっていくのが確かに見えた。俺の頭を撫でていた手のひらは首の裏側へと移動して、そっぽを向いたりしないように軽く押さえつけている。この人は危険だ!認識はしても拘束された手足ではどうしようもできず、ただ瞳の奥の感情を読み取ろうと頭を働かせることしかできない。
どんどんと心臓が鳴って血液が激しく身体中を駆け巡った。その割に指先やつま先はつんと冷え切って動かすことも不自由なほどだ。遠慮もなく真正面から俺を眺める先輩は首を押さえていない方の手で慈しむように俺の頬を撫でる。絵か何かを見るような不躾と言っていいくらいの視線を投げかけるわりにその仕草は触れることを禁じられた宝石を掬いあげるように畏れを帯びたものだった。

「それは、どういう意味ですか」

時計の秒針の倍の速さで鼓動が鳴っている。首を撫でるように、締めるように回された手のひらは俺の上昇した体温を落ち着かせるように冷めていて、確かに先輩はこんな体温をしていたな、と思考の隅でおぼろに思った。
人吉くん、無機質な声で先輩が言う。それは突破してはいけないところに足を踏み入れた、一線を超えてしまったがゆえに感情の高ぶりを無くした人間のようでもあった。ずっと昔、俺と出会う前の先輩とタイムスリップして対峙しているような。

「君は他の人間と関わりすぎてるんだ。だから傷つけられてしまう。悩まされてしまう。かわいそうな人吉くん。いつも思っていたんだ。僕ならそんなことは絶対にしない。そんな奴らから僕が君を守ってあげる。ずっと二人だけでいよう。そうすればきっときみも僕をいちばん大切に思えるようになる。ずっとずっと変わらずお互いを愛せるようになる」

ね、と微笑む先輩の優しい瞳をスクリーンの中の役者か何かみたいに眺めていた。理解不能で思考が停止したのか、パニックになってしまったのか、深く言葉の意味を考えることもなくただただ一点の曇りもなくいっそ誇らしげでもある先輩の姿を見ていた。その瞳にはまるで自分のすべてが正しいと言うような、宗教のためならどんなことをしてもかまわないとのたまう狂信者のような有無を言わさない力強さと狂気があった。僕をいちばん大切に。お互いを愛せるように。そんな言葉は男子高校生の友情において使う言葉ではない。それはベタベタした女の子同士とか、歩み寄ろうとしている親子とか、いやそんな特殊な例ではなくもっと身近で自然であり触れたことで。
背筋に冷たいものが走る。それがこの状況を妄想でも夢でもない現実だと知らせてくれた。わかった所で手足を拘束されて恐怖を認識してしまった俺に状況を打破する術など何もない。声すら出すことのできない俺に対し先輩はどこか満足げで、俺が彼を否定することなんかありもしないというように無邪気だった。

「人吉くん、だから君にもここを気に入って欲しいんだ。大丈夫。君もきっと好きになるよ。そうだ、君の好きなものをここへ持ってこよう。好きな食べ物とか映画とか本とか、なんでも用意するよ。ストロベリータルトは嫌いだったかな。前に不知火さんに誘われて結局行けなかったって言ってたところのだから、気にいってくれると思ったんだけど」

再び鼻先に差し出された真っ赤なそれを拒絶する意思も湧いてこない。この状況からの脱却を諦めたわけでも、先輩の想いの強さに恐怖したわけでもなく、どうしようもない人だ、と呆れている自分がいた。だってこんなことをしてどうして恋になるというんだ。冷たい光を反射するスプーンに少しだけ口を開くと、臓器のように真っ赤なストロベリータルトがくちびるを押し上げて口内に侵入してくる。約一日ぶりの食事だったがなんの感慨もない。不知火が絶品だと言っていたはずそれを手順として咀嚼してみたが、感触が舌の上から喉の奥へとするする滑っていくだけでなんの味もしなかった。



食べて仕舞おう様提出


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