車の中に横たわって外の世界を眺めていると、幼い頃を思い出す。
家族で釣りかなんかに行くと、行きはどんなにはしゃぎ回っていても、帰る頃には瞼を開けていることすら難しいほどクタクタになって、車の中に入るとすぐに寝息をたてていた。パパは運転席、ママは助手席、僕は後ろのシート全てを陣取り、ひざを曲げてやっと収まるそこから夢の世界へワープしていた。
うっすら開けた瞼の隙間からは橙色や紺色の空がウィンドウに切り取られていたけれど、今頭の上に見えるのは真っ黒な夜空と高速道路の等間隔に並んだオレンジの光。

「(タイムスリップしたんだ。)」

見慣れない景色は未来の世界へワープしてしまったような気にさせた。そうでなかったら鋼鉄と高度な科学技術によって作り上げられた彼らの星へ来てしまったのか。
バンブルビーに聞いてやろうか、そう思ったけれど頭がおかしくなったと思われたら余計に惨めなので、空気を喉に流し込むだけにした。咥内はひりつくほど乾燥していて、もはや流れる涙もない。
ほっと胸をなで下ろす。そうでなければ、バンブルビーが気を使って流す外国のバラードにさえ号泣し、あるだけの水分を涙に変えていただろう。僕の精神はメレンゲのように脆くなっていた。

「(ミカエラも、こんなに女々しい男と一緒にいるべきじゃないんだ。)」

こんなことでメソメソしている僕は、彼女が思っていたよりずっと情けない、心の弱い男なのだ。別れて正解だった。そう、たぶん、絶対そう。
何か別のことを考えようと意味の分からない曲に耳を澄ます。バンブルビーは打ちひしがれた僕に声を掛けたりはしなかった。それがありがたかったし、気を使わせてすまないとも思った。

車がカーブに差し掛かると、無抵抗な体がシートの背もたれへと緩やかに傾いで、直線コースに戻ると再び同じ位置へと移動した。
車体の大きさの割にスマートな動きだ。相変わらず僕の相棒は運転がうまい。自分の体そのものなのだから運転というのもどこかおかしい気もするが、これがアイアンハイドやサイドウワイプだとそうはいかないだろう。最初は愛車が変形したことに驚きすぎて走り方なんて些細なことに気が向かなかったけれど、誰かの言った一言ああ確かに、と納得したんだ。
「この車運転上手。」そう言った。そう言ってぎこちなく笑った。そうあれは。

「(ああだめだ。)」

なくなったはずの水分がどこからか湧きだして眼球に溜まる。それは車の些細な振動で不安定に揺れた。
だめだ。よくない。ここには思い出が多すぎる。
運転席のシートベルトもミラーにつけたキーホルダーもお節介なBGMもなにもかも彼女の表情と声が同じ記憶の中にあった。
落ち着くために息を大きく吸い込むと、彼女の香りが鼻を掠めたような気がして一層瞼の水が増す。無理もない。彼女はよく運転席に座っていたんだから。


「あなたと一緒にいられないわ。さよならよ。」

ミカエラが言った。

「ああさよならだ。」

僕は彼女の真っ直ぐな目に負けないよう、爪が食い込むほど強く手を握りしめてそう答えた。

「あなたは危険が多すぎるもの。」

「君を巻き込むわけにはいかないからね。」

「当然よ。こんなエキセントリックなことで死にたくなんかないわ。」

うつむいて、ウェーブのかかった前髪を掻きあげる。どうしようもなく困ったときにこの癖が出ることを彼女は知らない。そして、涙をこらえるときにくちびるの端を噛む癖のことだって、きっと世界中で僕だけしか知らないんだ。

「……さよならなのね。」

今度こそミカエラの声は震えていた。髪で顔を隠すようにうつむいて、決心がついたのかようにぴしりと背筋を伸ばし、きびすを返す。
僕は立ち尽くしたまま、彼女の強がりのようによく伸びた背筋が振り返ってこっちに駆けだしてくるところを想像していた。ミカエラも、僕の意気地なしなくちびるが嘘の約束を交わすことを望んでいたのかもしれない。「絶対に君を守るよ」とか「君を傷つけたりなんかしない」とか、出来もしないそんなことを。
けれどそれじゃだめなんだ。それだけじゃ、僕たち本当に幸せにはなれないよ。
僕に彼女を守れる本当の力がない限り、ミカエラが戻ってきたって、僕が嘘をついたって、どんなに二人が愛し合っていたって。

「(泣くな泣くな泣くな、)」

痛いほど体を抱きしめる。腕に爪を立てて涙を堪えた。水分は下まつげの内側にやっとといったようにギリギリ収まっている。
泣くな泣くな。泣いたら余計に自己嫌悪してしまうじゃないか。馬鹿。情けない。泣くなったら。

バンブルビーが珍しく乱暴な所作で急ブレーキをかけると、その勢いでこぼれた涙がシートに落下した。思い切り泣け、言葉を持たないロボットはそう言っているに違いない。
何事もなかったかのように緩やかに発進すると、ラジオから聞き覚えのある曲が流れてきた。『ベイビー・カム・バック』なんて、ミカエラはもうここにいないのに。

ああもうやめてくれよ。君はお節介すぎるんだ。
喉が熱い。肺が痛い。頭がくらくらする。


「私だって完璧な人間じゃないのよ。」
「もしかしたら私こそ、矛盾の極みかもしれない。」
「私のこと、底の浅い女だと思った?」

そんなことないよ。そんなことなかったよミカエラ。

「(君の、)」

「(君との日々は一日だって、)」

君の意地悪な笑い方、仕方ないわねって困った顔、ふくれっ面にキスすると照れたように浮かべるあの笑顔を、思い出すことすらどうしようもなく悲しくなる日が来るとはね。




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