益田龍一の溜息

真っ赤な液体が木目の上で少しずつ広がる様を聢りとした意識を持って眺めていた。自分の血は全部もっと赤黒くて汚いと思っていたのに、まるで偽物のようにさらさらとして真っ赤だったので拍子抜けした。面白くない。
止まらない汗が生温い雨粒の様に心地好いのに、肌にへばりつくワイシャツの不快感と言ったらこの上なく鬱陶しい。伸ばした髪が顔に張り付いて視界が半分無くなる。
「青木さん、なんだか痛いんだ」
――大丈夫。それくらいの傷すぐ治るよ。
そうなのだろうか。
結局自分の躯は思っているほど傷んでもいないし、健康そのものなのだ。あらゆる臓器が活発に動き、その一つも欠損することなく僕は何不自由なく生きている。
それなのに、この頭の中はどうだろう。肚の内はどうだろう。心と言う実態のないモノはどうだろう。
皆嗤っている。貌が歪んで解らない。足下はいつでも泥濘んでいるし、息も淀んでいる。掌が感じるのはただの空虚だ。
お前は狂っている。そんな事は誰も教えてくれない。
水彩絵の具のような赤が消えていく。見えなくなる。傷なんてものは、始めから無かった。
「青木さん、あなたが治してくれたの?」
――大丈夫、それは君の力だよ。
子供みたいな丸い輪郭を揺ら揺らさせ乍ら笑っている気がした。
例えばこの腹を抉っても、頸を跳ねようが頭が割れようが、まだ大丈夫なんて撫でるような声で云ってくれるのだろうか。
嘘だ。大丈夫な訳がない。
「青木さん、結局あなたも同じじゃないか」
――大丈夫、僕は味方だよ。
あなたが大丈夫だと云った僕の傷は一体何処にある。その傷を治す力は何処から湧いてくる。
実際に腹を切り開いて肉を捲って臓腑を引き千切って出したら、本当は赤黒くて濁った如何にも汚い血がどろどろと流れるだろう。この木目の床に渦を巻くかもしれない。
そうしたらそれはもう最早傷なんかじゃない。ただの穴だ。穴ならあなたは何と云う?また大丈夫なんて出鱈目を云うのか。
「青木さん、あんたも嫌いだよ」
――大丈夫、僕も君が嫌いだよ。
何が大丈夫なものか。世界が逆さになった。本当はあんたの貌さえ歪んで解らない。
なんだか興醒めしてしまったので、居もしない話し相手に向かって全身の不浄を吐き出すような、大きな溜め息を吹き掛けてやった。