益田龍一の憂鬱

「益田君」
見慣れた少年が、鼻にかかった幼い声帯を部屋いっぱいに響かせて自分の名を呼んでいる。その音は否応なしに僕の耳へ届き、鼓膜を震わせ脳へ伝達されてしまう。
嫌になる。この子に名を呼ばれると酷く焦燥してしまう。程好く陽に焼けた肌が如何にも健康的で、この子にはまだ身体的な傷みはおろか内面的な傷は一切見受けられない。何も識らないまっさらな眼が僕を映す。
自分が酷く汚れている気がした。必死に外形ばかり取り繕っても、結局子供のように純真無垢な精神など持っている訳がないのだから無駄である。
へらへらと馬鹿みたいに締まりのない顔を演じている僕の肚の内が本当はこんなにも屈折しているなど、この子はきっと夢にも思わない。理解が出来ないだろう。それだけが救いだと言うのに、どうしても不安になってしまう。
――この子を汚してしまえるのは自分だけかもしれない。
「益田君、具合でも悪いのかい?」
拙い言葉を垂れ流すやけに赤い唇は、こんな年端もいかぬ少年には似合わない。僕の半分ほどしかない身長も屈託のない変な笑い方も、この子供を構成している総てが僕を苦しめる材料にしかならなかった。
「益田君?」
濁りを知らぬ丸く瑞瑞しい眼。その眼から観た自分は一体どんな貌をしているだろう。
――厭らしい。
「顔色でも悪いかな?自分じゃ分からないけど。別に何ともないよ」
精一杯笑ったつもりだったが、ただ頬が痙攣しているだけのようだ。こんな顔は子供に向けるべきではない。
羨ましい。この子と同じ地表に立って、同じ澄んだ眼を以てこの子と対峙したい。
「顔色なんかいつも悪いじゃないか。いつもそわそわしちゃって、先生に益田君の様子が奇怪しいと言ったって勿論取り合って貰えないし。私はこれでも心配してるんですよ」
からくり人形の様に不自然に笑い乍ら近寄ってくる小さな体から眼を反らした。床と自分の靴と机の脚を交互に見ながら暫く逡巡した末、結局眼を合わせて言った。
成る程、様子が奇怪しい。
「大丈夫、僕ァピンピンしてますよ」
大袈裟に腕を振って見せたが怪訝な顔をされただけで、すぐ飽きられてしまった。所詮この子が持つ僕への興味など、ここ薔薇十字探偵事務所の主が僕に抱く感想と同じくらい薄く、殆ど無に違いのだ。
「ふうん。なら良いですけど。あんまり暴れないで下さいよ、湯飲みが割れる」
自分はそんなにいつも挙動不審だっただろうか。この子には自分があの小説家の様に見えているなんて。また居心地が悪くなった。何故なら後ろめたいからである。本当は自分の正面に座るこの無防備な幼い少年に、ずっと触れてみたいと思っていたのだから――
柔らかそうな髪、薄紅の頬、細い剥き出しの脚、小さな掌。羨ましいなんて嘘だ。
僕はこんなにも厭らしい。
「御免よ」
今の僕ほどあの人に同調出来る人間はいないだろう。猫背で如何にも陰湿な貌を思い出して、少しだけ憂鬱になった。