感染

榎木津が出掛けて行った数分後、突然土砂降りの雨が降った。一時間後ずぶ濡れになった榎木津は、何事も無かったかの様に平然と帰ってくると部屋中の床を汚した。そしてその翌日には最早規定事項の様に熱を出して寝込んだので、ああ矢張この人も人の子なのだなと妙に感心した。
風邪をひいても尚榎木津という男は、やれ粥はまだか水差しが空になったとか幼児の如く要求を繰り返して煩かった。寧ろ病人であることを利用して余計人を扱き使っている。
「榎木津さん、本当に具合悪いんですか?お粥あんなに平らげて、余程空腹だったみたいですけど」
「生きているのだから当たり前だろう!腹が減るのは当然ダッ」
空になった茶碗を頭の高さまで掲げると、お粥は歯応えがないなと然も当たり前の事を偉そうに云った。
「まあ、元気そうで何よりです」
こうして騒いでいる内は平和なのだろう。萎らしくしている榎木津など薄気味悪くて此方の方が気を病んで仕舞いそうである。
持ち上げたままの茶碗を益田が受け取ると、何か閃いたかのように一段と大きな声で榎木津は云った。
「ああ!そうか!お前はバカだから風邪はひかないんだな!じゃあ仕方無い!」
何が仕方無いのか丸で解らないが、この男が云うのだからそうなのだろう。確かに益田は自分が最後に風邪をひいたのは何時だったか思い出せずにいる。
「感染(うつ)さないで下さいよ」
茶碗を持った逆の手を口元に当てて態と眉を潜めると、榎木津は口を半分だらしなく開けて益田と同じ様に眉を潜めた。
「おい――僕の身体を蝕む菌があったとして、そいつがお前のような下僕に感染る訳がないだろう。何を心配しているんだ。僕がこの風邪を拗らせて肺を患おうが、血を吐こうがお前には全く関係がない」
当たり前の事を云わせるなとでも云いたそうな口調で唇を尖らせた榎木津は、寝台から飛び上がるとふらふらと立ち上がった。どんなに威勢が良くても矢張病人は病人らしく足取りが鈍い。
「ちょっと榎木津さん、何処行くんですか」
「どっか」
着崩れた服を直してやらなければという心配が一番最初に思い浮かんで、思わず失笑して仕舞った。
「おお!これは大変だ!おい、和寅。此奴はビョーキだぞ。気を付けろッ」
覚束無い足取りの癖に後ろ足を伸ばして益田を蹴ると、榎木津は満足そうに三角錐の乗った机に寄りかかった。
「ニヤニヤして気持ちが悪い!これは僕には感染らないが屹度関口辺りには大いに効くぞ。和寅、試しに感染して貰うと善い。バカオロカ病の患者第一号になれるぞ」
先程まで気を付けろと云っていた筈の主人に早速見捨てられた青年は困ったような、それでいて楽しんでいるような顔で笑うと、一度益田に目を呉れてから云った。
「ううん。私もバカでオロカになっちゃうんですかねえ。困ったなあ」
「アハッ!」
男のものとは思えない甲高い笑い声が一瞬だけ響いて、直ぐに消えた。
机に体重を預けた態勢は如何にも気懈そうで、何を云おうと結局体調が優れない事には変わりないじゃないかと可笑しくなった。また破顔して仕舞った事に因って榎木津が何か云うかと思いきや、益田が気付いた時には榎木津は寅吉に付き添われて部屋へ戻っていた。
結局、風邪は風邪だ。本当は辛かったのだろう。それでも無理に食事を摂ってみたり、大きな声を上げたりと余程サーヴィス精神が大勢なようである。
「一寸騒ぎ過ぎましたね」
部屋を辞してきた寅吉は肩を竦めると水を張った洗面器を手にしたまま続けた。
「そっとして置きましょう。放って置けば寝て仕舞って、暫くは梃子でも起きませんから」
「君は手慣れているね」
「まあ、あの人もあれでいて実は人並みに風邪だってひきますから。ああ、でも確かに榎木津さんから風邪を貰った事はないなあ」
大正時代の書生の様な後ろ姿が勝手へ消えて行くのを見届け乍ら、益田は少しだけ溜め息を吐いた。
明日には榎木津の様態が少しでも回復すると善い。昨日から一向に止まぬ土砂降りの雨は、屹度神の体調一つで決まるのだ。
「榎木津さん、風邪は百病の長とまで言いますから。拗らせちゃ駄目ですよ」
榎木津の自室の扉に額を預けてそっと呟いた言葉は、勝手から響いてきた寅吉の嚔に因って掻き消されて仕舞った。
神の風邪は感染るらしい。