魘魅



「彼奴を殺して仕舞おうか」
確かにそう云った。
平素はあんなにも聞き取り辛い話し方をする癖に、何故こんな時ばかり確乎り発音するものか厭になった。
「殺して如何するのです?」
「わからない」
一瞬不自然に伸びたように見えた背筋がまた歪んで元に戻ると、胡乱な目線を逡巡させながら関口は云った。
「鳥口君、僕は今何か云ったかい?」
「いいえ、何も」
狂うのは勝手だが、自分を捲き込まないで欲しい。関口の頭越しに覗く淀んだ景色は今にも雨をもたらしそうである。
喫茶に流れる洒落た音楽に、今始めて気が付いた。それほどまでに余裕が無かったのだ。自分もこの男と同じだ。
「関口さん、そろそろ帰りませんか?雨が降りそ」
「鳥口君」
云い終わらない内に遮られた自分の名前が狭い店内にやけに響いた。
「君は知らないだろうが彼奴は男色の気があるのだよ」
「は?」
何とも突飛な話である。
「昔からだよ。本当だ。榎さんに尋い質しても善い」
いつになく必死な形相で前のめりになった見窄らしい小説家は、兎に角そう訴えた。
そんな事は云われなくとも既に――
「関口さん、矢張帰りましょう。仕事の話はまた後日改めて直接お宅に伺いますから」
「はあ」
溜め息なのか相槌なのか判然としない返答は最早鳥口に向けられていない。




何と無く気付いてはいたのだけれど、鳥口は何も云わなかった。
何れにしても自分には然程関係の無い事のように思う。無闇に詮索するのは野暮だし、初めは自分の思い過ごしではないかと思っていたほどである。
それなのに、あの陰気な小説家は虚ろに云った。
――君は気を付けた方が良いよ。彼奴は君を気に入ってるんだ。
あの一言のせいで確信に至った訳でもあるまいし、訊きようによっては厭味である。気に入られてるとか、だから気を付けるべきとか、それこそ余計な詮索であり余計な御世話だ。
中禅寺という男は確かに喰えぬ男ではある。だけど悪人ではない。善人とは云えないけれど好い人だとは云える。
自分の思い違いだ。そう一層強く思い直して坂の天辺を見上げた。
蜃気楼のようにぼやけて見えないその先に、自分は何の用があるのだろう。用もなくこんな坂を登るのは徒労だけれど、屈強な鳥口には結局よく判らなかった。
――兎に角登って仕舞おう。
傾き始めた陽が坂を朱く染め出していた。




「師匠」
「だから、僕は君の師匠なんかじゃないと云っているだろう」
「すみません」
正座をした脚がちりちりと痛み始めて下ばかりを向いていた。話し相手こそ本を読んだままなのだからなんとも変な光景である。
結局あのまま坂を登りきり、こうして歓迎されぬ出迎えを受けている。
何か云いたい事があるのか。
何か訊きたい事があるのか。
何か確かめたい事があるのか。
あると云えばある。嫌になる程ある。だが一言、ないと云えば本当にない。
頭の中に浮かんでは消える話題の靄は掴もうとすればするほど希薄になった。だから頭にあっても口からは決して出ない。
「今日は随分と萎らしいじゃないか。悪いものでも食ったか」
「いやあ、そういう訳では」
如何にも奇怪しい。自分でも判る。
目の前で本を読んだままの家の主は傾きかけた陽の、翳の部分だけを吸収してしまったかのように昏かった。
その昏さに妙に馴染む血色の悪い病人じみた顔が突然正面を向いて、鳥口は思わず息を呑んだ。
「関口か」
「え」
「どうせ彼奴に下らない事を吹き込まれたのだろう」
正にその通りである。矢張この男は何でもお見通しだ。
――彼奴は男色の気があるのだよ。
――彼奴は君を気に入ってるんだ。
気付いていたんじゃない。鳥口は識っていたのだ。何も云わないのではない。凡て識っていて、だから何も云えなかった。
「噂をすれば、か」
此処を訪れて半時間は過ぎていた。今更茶を淹れるのか、小言をもらし乍ら立ち上がった中禅寺を見上げて鳥口は今日今この時間に此処を訪れた事を酷く後悔した。
噫、あの貌だ。
あの貌はいけない。
「師匠、誰か――」
「こんな無い脚で歩っているような跫をたてる奴は彼奴しか居ないよ――まったく仕方がないなあ」
自分こそ跫一つたてず本の山をすり抜けて、息を吐く暇もないほど速い動作で鳥口の視界から消えた。
「関口君、開けないで呉れないか」
『出直そうか?』
気付けば自分の左脇では中禅寺が膝を着き乍ら歩み寄ってきて、右脇の襖を挟んで向こうにはあの体裁のあがらぬ小説家が立っているらしい。
中禅寺の枯れ木のような指は、いくら細いとはいえ矢張男であるから白魚の様とは云えない。それでもその細いだけの指が、今は酷く婀娜っぽい。
脚、肚、胸、肩――
枯れ木が鳥口を撫でる。
「中禅寺さん!」
「こんな時ばかり名前で呼ぶなよ」
息が吹き掛かる程近くで眺めたその男の貌は、見たこともない嬌笑を浮かべていた。
「関口君、帰ることはない。一寸待ち給え」
頸、髪、顎、頬、唇――
『じゃあ――厠を借りてくるよ』
最早鳥口にその愚鈍な声は聞こえなかった。




返事がないので勝手に上がった。
普通であれば誉められた行為ではないが、この家では許されるし罪悪感も無い。どうせ奥に居る筈の家の主は来客の気配に気付き、始めに投げ掛ける厭味の一つでも用意している事だろう。
「関口君、開けないで呉れないか」
襖の奥から好く通る声で家の主が云った。何か見られて都合の悪い状態であることは間違い無いが、あの男に限って隙などあった試しが無い。
珍しい事もあるものだ。襖一枚隔てた部屋の中が矢鱈と気になった。
「出直そうか?」
返事は無く、代わりに間抜けな声が微かに鼓膜を震わせた。
――中禅寺さん!
鳥口が居るらしい。
幽かに聞こえた声から先客の存在を知る。玄関に靴はあっただろうか。思い出せない。
踵を返すと背後からまた声がした。
「関口君、帰ることはない。一寸待ち給え」
毅然とした態度を崩さず、京極堂は云った。自分がこの襖を開けるような愚かしい行いをするわけがないと高を括っているのだ。
「じゃあ――厠を借りてくるよ」
自分が用を足している間にそちらも事を済ませておけと云う意味を込めて吐き捨てた。京極堂の思惑通り、自分にはあの時襖を開ける事は出来ない。




「君は厭だ」
家の主は何事も無かったかの様に本の頁を捲り乍ら云った。
この部屋に入る際、鳥口は逃げるようにして帰って行ったので挨拶もしなかった。顔を遇わせたのはつい先日である。
――逃げることはないだろうに。
子供の挙動を見咎めるような口先で京極堂はそう云ったが、真実逃げたのだろう。誰でも逃げて当たり前だと思う。この状態で平然と居座れるのは榎木津くらいだ。
「別に僕は頼んだ訳でもないし、一方的に断るなんて失礼じゃないか。君は自惚れているのか」
「だから君は厭なんだよ」
読んでいる本から視線を外すことなく、まるで興味が無いと主張する様な声色で古書肆は詰まらなそうに云った。
「僕だって嫌だ」
自分の卑しさや歪みは自分が一番識っている。そして二番目に其れを識っているのは屹度此の男なのだ。そんな奴に自分を更に曝け出すなんて事は、僕のような人間には残酷過ぎる。
だから昔から嫌だった。
友人にどんな嗜好があろうと自分には関係がない。しかし幾らそう云い聞かせたって、人の欲の浅ましさは誰よりも自分が理解している。
人は色欲を前に抗えない。
何度踏み外すか知れなかった。もし逆に襲われて仕舞えば、屹度堕ちていたのだろう。
「気に入っているんだろう、彼が」
「どいつのことだ」
素っ惚けるこの男が何れ程貴重でも、やっと顔を上げた其の目が少しだけ嗤っている様に視えて如何でも良くなって仕舞った。
「さあ。僕じゃないことは確かだな」
精一杯の軽口は、本当に声に出して云えていたのかも怪しい程弱弱しく空を揺らした。




「だから云っただろう」
少しだけ優位に立った様な顔をして、その人は云った。
本当にその通りである。
もしかしたら自分は期待していたのかも知れない。だから用もなくあんな巫山戯た坂も登ったし、迫られて尚強く抵抗することもしなかった。
「仰有っる通りです」
「なんだよ萎らしくなって。君らしくもない」
「同じような事をつい先日も云われました」
「ああ――」
この男に憐れむような目で見られる日が来るとは夢夢思わなかった。
勿論先日の事だってそうなのだが、詰まる所あれは起きて仕舞った事なのだ。今更取り消す事も忘れる事も適わない。
「僕は屹度君が羨ましいのだなあ」
「え」
歪に持ち上げられた珈琲カップに口をつけたまま、関口は続けた。
「本当は僕もそうなりたいのだよ。それも、もうずっと十五年も前からさ。君の様に選ばれた者が羨ましい、だから自分を選ばぬ彼奴が疎ましい」
――彼奴を殺して仕舞おうか。
あの日と同じ茶店は同じ貌をして同じように自分達を呑んでいる。
もう鳥口に珈琲の味など判らない。
「だから殺して仕舞うんですか」
「え」
「否、何でもありません。どうも僕まで調子が狂っているようだ。仕事の話はまた今度でいいですか。今はどうにも――」
「ううん」
溜め息なのか相槌なのか判然としない返答は、矢張鳥口に向けられていなかった。