黄昏

腹が空いたと云う。何が食べたいのかと訊き返すと、煩いと叱られた。
その日はそれから口をきかなかった。肚を立てた訳でも、萎えた訳でもない。榎木津の云った事を一から十まで真面に訊くことなど不可能である。
それは榎木津を倦厭しているからではないけれど、怠惰になっていることは確かだった。
面倒だ、無駄だ、徒労だと何度思ったか知れない。骨折り損はもう真っ平御免だ。榎木津という男個人を毛嫌いしているのではなくとも、そういった感情は隠しきれない。
もっとかけるべき言葉があった筈だとか、そんな良心の呵責は何故か榎木津には生じなかった。
「腹が減った」
「またですか」
口を吐いて出た聞き慣れた筈の自分の声が、思いの外無愛想であったから自分でもぞっとしてしまった。
年上である以前に雇い主であるとか、そういったことを抜きに考えても今の態度は余りにも横柄である。
「すみません」
「何が」
鳶色の瞳は何処か空虚を追っている。
非常識だと云われて仕舞えば反論も出来ないが、そもそも榎木津という男自身に常識が無い。
「いや――何が食べたいんですか?」
「わからない」
わからないよ――囈言の様に二度繰り返した榎木津は珍しく静かだった。目線は相変わらず部屋中を彷徨っている。
無理に自分を見ないようにしているように思えた。
それもそうだろう。益田の記憶など見て何か面白いことがあるならまだしも、自分で考えてみたって碌な想い出がない。
臆病で卑怯な、どこか捻じ曲がった自分の記憶の残骸など屹度捻じ曲がっていて当然である。
そんなものを見るのは実に不愉快だ。だから榎木津だって見たくなくたって当然である。
「甘い物ですか?和菓子か洋菓子か――噫、焼き菓子は嫌いなんでしたね」
「それでも好いよ」
別にそれでも好いんだ――と、また繰り返した榎木津の声があまりに虚無であるから、その作り物めいた顔がより人形の様に見えた。
泣き声の様に声帯が震えていると思ったのは勘違いだろうか。
しかし今泣いていようがいなかろうが、榎木津も屹度泣くのだ。泣かぬ人間など居ない。
榎木津らしくない。昏くなり始めた部屋の色に併せて沈んでゆく榎木津のシルエットが何故か儚く思えて悲しくなった。
「嫌いなのでしょう?焼き菓子は。そんなことを云うと明日にでも本当に買ってきますよ」
「嫌いだよ。でも買ってくるんだろう?――じゃあ食べなきゃいけないじゃないか。明日までに僕か――君が死んでいなければね」
酷く不安になった。
榎木津は一体誰と話しているつもりなのかという疑念が寒気のように益田を襲った。
平素の高笑いからは想像もつかない程打ち沈んだ声が妙にこの黄昏時に馴染んで仕舞っているのがいけないのだ。
窓から覗く空の色は見たこともない鮮やかな橙色で、御出で御出でと闇を呼んでいる。
陽が完全に沈んだら如何なって仕舞うのだろう。もし榎木津が本当に泣いたとしても、あの鳶色の大きな眼から涙が零れる瞬間を益田は見れないだろう。
榎木津の高い鼻や長い睫毛が影を為し始めている。
「榎木津さん」
僕が誰か判りますか――そう云いかけてやめた。もうこんな榎木津と真面に会話が出来る可能性など、普段よりも無に等しい。
黙って暇しても咎められることはないだろう。後のことは何か問題があろうと、元から住み込みで面倒をみている人間に任せて仕舞えば善い。自分はこの男の御守りでも何でもないのだから、それこそ後ろめたくも何ともない。
「帰るのか」
もう榎木津なのかどうなのかも判別出来ないほどに様子の奇怪しいその人物は、漸く益田を見据えて確乎りとした口調で云った。
もう部屋はすっかり昏くて、その表情は見えない。
「もう陽が暮れますから」
「僕が怖くなったのだろう」
だから帰るのだろう――こんなにも昏い部屋の中で、何故か真っ直ぐ益田を捉える大きな瞳だけは所在がはっきりとわかった。
先ほどまで何を見ているのか判然としなかった二つの眼は今真正面から自分を捉えている。
捻じ曲がった記憶の残骸は丸見えで、屈折した己の内側も何もかもが今正に露見している。
記憶を覘かれるのはこれが初めてでもあるまいし今更気にすることもないように思えるが、何故か今だけは止めてくれと大声で拒絶したくなる程嫌だった。
「勘違いするな。僕が見てるのは」
「聞きたくありません!」
駄々を捏ねる幼児の様な怒鳴り声が反響して躰が震えた。奇怪しくなっているのは最早この男だけではない。
何故か黒い着物の裾が脳裡に浮かんで、一瞬で消えた。
「お前が買ってくるなら甘くても苦くても酸っぱくても辛くても、何でも好いと云ったんだ。何も奇怪しくないだろう?――でも甘いのが好いな、うんっと甘い物が。でもお腹が空いてるのは今だから、明日の話なんか如何でも良いんだ」
先程の沈んだ口調は何ら変わらぬ癖に、動きだけは榎木津そのものだった。脚にバネでも付いているような弾みのいい足取りで益田の横まで来ると、足が浮くほど強く腕を持ち上げて、闇に呑まれた部屋を見渡し乍ら続けた。
「電球が切れてるんだ。和寅の帰りが遅いから部屋が真っ暗だ」
「離して下さい」
腕が千切れそうな程痛い。筋肉が変に伸ばされているのがよく解る。
捉まれていない方の腕で抗議したがまるで取り合って貰えず、益田は初めて榎木津を蹴ってやろうかと思った。
「馬鹿だな。だからお前は何時まで経ってもバカオロカなのだ。――食べに行くんだろう?」
「は?」
「善哉」
こんな時間に、善哉――まず初めに頭に浮かんだことがあまりにも馬鹿らしかったので、成程だから自分は馬鹿で愚かなのかと思い至った。
もう如何でも良くなってしまった。
榎木津らしくないとは云ったって、益田は榎木津の本性など識らないから榎木津らしい榎木津も榎木津らしくない榎木津も結局識らない。
これから本当に善哉を食べに行くにしたって、何時迄も帰って来ない自称探偵秘書を探しに行くのとそう変わらない。
そうしなくては陽の落ちきった夜に浸かって居なければならない。
それは嫌だ。
「もう甘味処は店仕舞いしていると思いますが」
「構わないよ。ほら、確乎り立て。僕が支えてないと歩くことも出来ないのか」
淡々と話す榎木津の言葉の節々から何故か慈愛めいたものを感じて、益田はいよいよ自分は奇怪しくなって仕舞ったと項垂れた。
榎木津の優しさなど識らない。
「何時迄も拗ねていると置いて行くぞ」
こんな真っ暗闇の中でたった独り置いていかれるのも嫌だし、不自然に腕を吊り上げられたまま外へ行くのも嫌だ。
自分の方が泣いて仕舞う。
「拗ねてなんかいません」
ほんの一瞬、刹那の彼岸は誰そ彼――夜に紛れて呆気なく行方を暗ませた。