躁病

倒れた本の塔達に潰された私は誰にも気付いて貰えず、一秒一秒を閑寂としたこの家の一室で独り寂しく過ごす。この家の主人が私を見付けてくれたなら善いのに。
私は子供のように拗ねている。早く、早く私の腕を掴んで云うことをきかぬ痺れた二本の脚で立たせて欲しい。温かい茶が飲みたい。毛の硬い猫の背を一撫でしたい。
私を見付けてくれたなら――


上も下も右も左も本。和綴じばかりが積み上げられて搭を為す。本本本本本本本本――気が狂いそうだ。埃も黴も墨も、古い紙の臭いも今はただ奇怪しくなる為の材料にしかならない。
これだけ本ばかりに四方を塞がれ囲まれればそう思いたいところだが、ちっともそうは思わない。慣れてしまったのだ。慣れたと云うことは、慣れるだけここに滞在する時間が長いと云うことである。
この家の主人は客をほったらかして何処へ消えた。よくも私を放り投げたものだ。お陰で私はどうしたものやら身動きがとれない。部屋から出て擦れ違いになりたくないだとか、無闇に動いて本の塔を倒したくないとか云い訳は数々ある。
ああ本達が私を視ている。
私の右斜め横、一尺程離れた塔の中になんだか見覚えのある本がある。じっとりとした視線を寄越し乍自分をここから引っこ抜けと主張している。しかし如何にも重そうな本が何冊も被さって、こいつは抜けそうにない。ああそんなに視てくれるな。私はここの主人同様力仕事は嫌だ。
それでも私はその本が気になる。一寸腕を伸ばせば届くのに怠惰な私はそれっぽちの動きすら躊躇する。あの本が欲しい。
幼児の様に四つん這いでほんの少しの隙間を移動する度塔が崩れる音がガラガラと埃を舞い上がらせた。咳き込みながら噫!彼奴に叱られる!と思って声を上げて笑った。独りで音の無い部屋に私の馬鹿笑いは滑稽に響いた。
引き抜いた本を腕に抱き乍腹の中で眠る胎児の様に膝を曲げ座っていると漸く無音の部屋に静かな跫が孕んで私は胸が高鳴った。まるで心臓が耳に場所を移したように煩いものだから、胸の辺りをまさぐって心臓の場所を確認したが、心臓は確かに左胸で鼓動を打ち続けていた。持ち主の私より働き者である。
襖を開けた第一声を期待していたのに私の耳には襖を閉める音や畳の上を歩く音しか届かない。
「なあ、京極堂」
もしかしたら溜め息くらいは聞こえていたのかもしれない。
「地震が起きて僕は本に潰されて死ぬんだ」
崩れた本を一冊ずつ丁寧に拾い集める音だけが聞こえる。視界の端に枯れ木の指がちらちら映って可笑しくなる。あんな腕は強く握ったら骨が砕けるかもしれない。
「慌てて戻って来た君はこの惨状を見て泣いてしまう」
返事がなくとも私はめげない。本に囲まれるのと同様慣れている。
「それでこう云うんだ――ああ、また整理しなくては」
言い終わってなんだか清清した。まるで子供の憎まれ口である。
一頻り拾い集めて積み上げ終えたのだろう。自分に近付く気配に一寸緊張する。視界に和服の裾が見え隠れして擬かしい。漸く私の横に落ち着いた気配が腕の中で暖めていた本を乱暴に引き抜くと、そのまま勢いよく脳天目掛けて〈それ〉を振り落としてきた。
――痛い!
痛みと云うのは生きている証だと、いつだか私は自らそう云ったような気がする。
私の頭を抉らんと振り落とされた本はまた、温温と何事も無かったかのように戻って来た。
「君は子供か?何を如何したらこんなに散らかすんだ」
「君の子供か?」
「は?」
すかさず返した言葉に意外な返事が返ってきたので私はにやけた。可笑しい。私は今日頗る機嫌が善い。私がこんなに清々しく善い気分なのだから、この陽気さはこの男にだって一寸くらい感染している筈だ。愉しい。
「君は面白いな」
「――おい。君は寝惚けてるのか?さっきの打撲で脳に障害でも出来たんじゃないだろうね。君が僕の子供なんて冗談じゃないぜ。――にやにやしないでくれよ、気持ちが悪い」
焦っているような気味悪がっているような、どちらにしても珍しいことに変わりはない。一寸だけ眉をハの字に下げて頭を掻いた仕草が少しだけ愛しくて猫の背のように触れたくなる。この本のようにまた腕を伸ばしたら叶うだろうか。
伸ばした腕から本が落ちたが構うものか。目眩と云う大層なタイトルのついた馬鹿げた装幀の本が一冊私からはぐれる。
「その本を持って帰り給え」
君が私を見付けてくれたなら、私はこの躁状態から救って貰えるかもしれない。
「ハハ!榎さんが感染した!」
「――吁嗟」
友人が額を押さえて声を荒らげたのが可笑しくて、矢ッ張私は腹の皮が捩れるほど破笑した。