薔薇

春は僕を駄目にする。眠気を誘う厭な暖かさが頭痛を呼ぶ。散って泥と同化した桜の花弁が靴底で不気味に鳴く。
寮へと続く道で何人もの生徒と擦れ違い、追い越される。例えようのない疎外感を感じた。僕は今一人なのだ。いつも隣でつまらなそうな顔で悪態の限りを尽くす友人が居ないので寂しくなった。
友人――中禅寺は午後の授業が終わると姿を消した。図書室には居なかった。ならばもう寮へ帰ったのだろう。一言声をかけることすらしないのだから彼奴らしい。

廊下に差し込む夕日の朱色に頭痛がまた併発される。眩しさに目が眩む。朱い光に満たされた軋む廊下に自分の影だけが伸びて背筋がぞっとした。
早く部屋に戻ろう。
僕の部屋は中禅寺の部屋の隣にある。端でも中心でもない、両室を級友に挟まれた個室だ。壁が薄いので騒げば声が漏れる。以前僕の部屋で榎木津が一度呆れる程の馬鹿笑いを始めた日があったが五分とたたないうちに苦情が来た。勿論両隣からである。
榎木津とは先輩なのだが、いつも上機嫌で僕の背や頭を意味もなく叩く。中禅寺は僕を罵るのと同等に彼には随分な口をきいている。先輩と云う認識があまりないらしい。榎木津について僕は中禅寺より知らない。

この先四つ目の部屋が中禅寺、その隣五つ目の部屋が僕。今日もまた布団を敷いたままだ。扉を開けたらそのまま崩れて寝てしまいたい。何しろ頭痛だ眠気だと僕宛にいらぬ春の便りが届いているからである。
四つ目の部屋の前に差し掛かった所で足が勝手に止まった。朱色の中に一筋違う色の光が射し込んでいる。中禅寺の部屋。開いているのか――
小指が入る程度の隙間だった。聢り閉めきらないとは彼奴らしくないと思ったが然程気にせず手を伸ばした。黙って閉めてやるか、突然開けて脅かしてやるか迷う。
どうせ本を読んでいるのだろう。彼奴には本を読むしか楽しみがないのだ。黙って閉めてやろう。集中しているなら何も邪魔することはない。明日開いていたと一言忠告するだけで善い。でも閉める前に少し、一寸だけ覗いてみたい。もしかしたら仮眠をとっているかもしれない。中禅寺の寝顔など見たことがないし、想像出来ない。自分で眠りが浅いとぼやく程だから貴重だ。好奇心がむくむく沸き上がって抑えきれなかった。

――――――。

一歩前に出た瞬間僕は電線に触れたかのように飛び上がって、戦慄き乍扉から離れた。
扉の向こうからは確かに声がした。声だ。でも何を云っていた?判らない。そもそもあれは言葉じゃない。中禅寺の声かも判らない。
逡巡している間本当は気付いている自分と、それを否定したい自分とが鬩ぎ合っていた。
言葉ではない声――
また一歩扉へ詰め寄る。いけないと頭が云う。進めと足が云う。この扉の向こう側へは行けない。
音をたてぬよう壁に手を掛けると中の様子が写真の場景の様にぼんやり見えて、酔いそうなくらい目が覚めた。
逆光で顔は見えない。それでも唇と頬の赤さ、躰の白さ、浮かぶ血管の青さだけが薄暗く朱色に染まった部屋に映える。脱ぎ捨てられた黒い制服。その横でしなる背中。細い。折れてしまいそうに細い躰を――
榎木津が中禅寺を組み敷いていた。
背徳、破戒、禁忌――
ありふれた言葉が次次頭を過る。指一本動かせず立ち竦む僕。扉の向こうで一糸纏わぬ友人達。
力一杯踏ん張ったせいか床が一際軋んで音をたてた。部屋の主に気付く様子はない。
僕は見蕩れている。友人の恥体に僕の思考は根刮ぎ奪われてしまった。上下する喉仏から、畳を掻き毟る爪から目が反らせない。
帰れ。早く部屋へ帰れ――僅か残っている自制心だとか道徳心で身体に云い聞かせた。もう眠気は消えた。それなのに頭痛は数倍に膨れ上がり、金属を引っ掻くような耳鳴りが始まった。
もうこれ以上は耐えられない。そう思った矢先、視界の向こうで――

僕は夢を見ていたのだ。
僕はいつも虚ろで、夢か現か幻か判断が出来ない。
まずあれは現ではないだろう。幻など有り得ない。それなら僕が見たのは夢だ。口笛を吹くような高慢さで謳うような何気無さを装い、僕は夢を見たのだ。
夢に現れた友人は自分自身を表すと云う。夢の中の友人は自分自身の本来の姿である。それなら中禅寺と榎木津、どちらが僕だと云うのだろう。
唇と頬の赤さ、躰の白さ、浮かぶ血管の青さ。仄暗い部屋の中で友人の姿があんなに鮮明に見えたのは――

僕が中禅寺を組み敷いていたのか。


濡れた赤い唇の端をつり上げて中禅寺が何か囁いた。

「榎さん、卑しい猿が見ているよ」