初恋

「先生」

泣いているなんて貴方らしくない。貴方はいつも汗ばかりかいて、顔を真っ赤にし乍口ごもるだけで泣いたりなんかしないのに。

泣かないでと手を差し伸べる事は叶わない。手巾を差し出す事すら憚られる。私は何も出来ないんじゃない。してはいけないんだ。

嗚咽で震える躰が愛しくて、欠伸をしている猫の様に円を画く背中を曲がった背骨に沿って撫でてやりたくなる。否、抱き締めたいんだ。私は貴方を抱き締めたい。

いくら小柄な貴方の躰でも全身を包み込んであげるには、女の私じゃ足りない。だけどそれでも貴方を抱き締めたい。

子供の様に体育座りをした膝の上に腕を組んで、そこに顔を埋めて泣いている貴方の属性がもし少しでも異なっていたら。貴方が私の職場に出入りする、ただの幻想小説作家だったなら。私は貴方を好きになったのでしょうか。

兄が居て、そして私達を取り巻く凡ての存在があって初めて私は貴方と云う存在が認識出来る。何か一つ欠けていただけで、貴方の顔すら知らなかったかもしれないなんて――――怖い。

何があっても今私達が持っている既存の事実、自分と云う個体の属性は変わらない。私は一生私で、一生貴方の友人の妹。変われない。変わってしまったら貴方と居られない。私が私で居なければ意味がない。私が私じゃなければ貴方に辿り着く事さえ難しい。

まるで人のものを欲しがる性癖の女になったようで嫌になる。いくらそうではないと弁解しても結局事実は変わらない。そうした性癖を非難するつもりはないが、貴方が既婚者である事は確かに重要な、一番乗り越えられぬ壁である。それでも矢張私は兄に執着する。貴方は兄さんの友人。一番近しい友人。だから私は貴方と出逢えて、こんなにも親しくなれたのだ。

兄さん。私が貴方なら、この人を守れたの?

「先生」

触れた掌が熱い。鼓動が耳の傍で唸る。切ない。私も泣いてしまいたいくらい悲しくて、でもそれは触れた掌から感じ取った貴方の苦しみや感情を共有しているからではありません。これは私の感情。私だけの物、私しか知らない私の想い。

濡れて汚れた顔を両手で包んでそっと唇に触れた。初めての接吻。乾燥した唇は皮が剥けていて、無精髭は痒いしとてもロマンティックとは云い難かった。貴方らしくて好い。だから貴方が好き。だから私は自分が嫌になる。

「御免なさい」

なんて狡い女だろう。こんな自分は知りたくない。どんな格好をしても、どんな行動をとっても結局私は女なんだ。貴方が欲しくて堪らない、厭らしい雌だ。

こんな事をして、またあの時のような辛い思いをさせてしまったらどうしよう。貴方の精神を掻き乱すような事件を私自ら犯してしまった。私の罪が貴方の病を併発して、私のせいで鬱ぎ込む貴方。そしてやがて私を忘れ、それでも心のずっと深い無間の底で、何時でも私の罪に縛られ乍現実と彼方側を往き来する鬱悒とした生活。

――私を許して。

私のせいで貴方がまた彼岸をさ迷うならばどうか私の手を取って、そして何時もと寸分変わらぬくぐもった声で呼んで欲しい。

「敦っちゃん」

恋なんて、私には百年早かった。