失敗

宛もなく出掛けた日曜の事だった。
小学校の新米教師として子供相手に奮闘する毎日から唯一解放される日曜にごろごろと寝て過ごすのは割りに合わない。かといって恋人だとか特別会いたい友人も居らず、目的もなく家を出た。
何処かの書店に寄って物色してみようか。偶には読書もいい。帰りに一寸奮発して良い紅茶を飲もう。大雑把な計画をたて、いざ隙間風で冷えた借家の玄関を出ると外は陽が暖かかった。いい天気だ。暫く雪は降りそうもない。
最寄り駅から電車に乗り、心地よい揺れに微睡みながら何気なく四五駅先で降りると休日だと云うのに人は疎らだった。此処は何と云う駅だったか――
中野、か。あまり馴染みの無い所だ。
改札を出て、さあ本屋は何処かと駅に背を向けた刹那。視界の真ん中に和服の男が登場した。自分の真っ正面から此方に向かって歩ってくる。黒か褐色かよく判らない暗い色の和服は着物姿のご婦人すら居ない駅前では非常に異色で、自分でなくてもこれは目につくとぼんやり思った。顔はよく見えぬ。まだ電車で味わった眠気から覚醒仕切れていない。
それにしてもなんと云う仏頂面だろう。個人を特定出来るほどの人相までは見えないが、眉間に深深と刻まれた皺は距離をおいても目立つ。先ずオーラが奇怪しい。明らかに不機嫌である。まるで世の中全てが気に入らぬと主張しながら練り歩っているようだ。
目線が絡みそうで咄嗟に目を反らし、思わず逃げようとして一瞬躊躇した。
あれは何処かで見た目だ。否否、思い違いかもしれぬ。あんな風体の男に心当たりはない。
確認するため再度上げた目線が捉えた人相に益田は息を飲んだ。
「――先生」
高校時代の担任であった。
確か二年の時である。あの頃は勿論こんな出で立ちではなかったので気付くのに時間がかかったのか。和装の男性と云うのが益田にとっては珍しく、上から下まで目配せしていると元担任は訝しげに吐き捨てた。
「益田君、あまりじろじろ見られては居心地が悪い。止めてくれないか」
挨拶もない。益田は暖かな日差しの中で、今日初めて寒気を感じた。


立ち話も何ですからと駅前の喫茶店に誘うと元担任は返事もせず無言で益田を追い越し、喫茶店の扉を潜って消えた。
「先生、その――お久しぶりです」
「僕はもう君の先生じゃないよ」
つまらなそうに目を伏せた男は益田の分の珈琲も勝手に注文すると一度咳払いをして、やっと益田を見た。本当は紅茶が良かった。
「あの、何故中野に?」
一言発するだけでも一苦労である。睨まれているようで気が気じゃない。確か昔も同じ様な事を思っていた。得体の知れない圧迫感を感じるので一対一になると縮み上がっていた過去の自分。学生の頃からこの男が苦手だった。
「僕は今中野に住んでいて、古本屋をやっているんだよ」
まだ退職するような年ではない。でも何故教師を辞めて古書肆になったかなどどうでもいい。
「へえ。古本屋さんに」
確かに担当教科や本に限らず、何にでも詳しい教師だった覚えはある。博識と言うのか、度々生徒が群がり人気の教師であったらしい。こんなに無愛想な男の何が魅力か益田には今でも理解出来ない。
暫く沈黙して居心地の悪さを堪能した後、支給が運んで来たただ苦いだけの黒い水(珈琲)を喉に通して漸く切欠を窺った。
「不味い――ですね」
返事は無い。何も言わずただの黒い水(珈琲)を啜る顔は相変わらず不機嫌である。
「君は珈琲の味が解るのかい?」
関心関心と子供ような扱いをしてくる元担任は、益田の朧気な記憶と寸分違わぬ姿で笑った。
「お変わりないですね」
「そうかい?君も相変わらずだね。生徒達に嘸や馬鹿にされているだろう」
「はあ」
強ち間違ってはいない。校内で一番若い新米教師は、力の有り余ったお転婆な生徒達の格好の餌食である。
――否、何故知っている。
「先生、何でそれを――」
「僕はもう先生じゃないと云っているだろう、この粗忽者」
では何と呼べと云うのか。正直益田はこの元担任の名前を覚えていない。否、知らないと云う方が合っている。
「どうせ僕の名など知らんのだろう」
大した憎まれ口だが機嫌は良さそうな口振りである。まあ顔は相変わらずの仏頂面ではあるが――
「あの、それで何故僕が教師をやっていると」
「青木君から聞いた」
青木とは益田の級友であり、今も多少交友がある。丸みを帯びた顔と髪型がこけしを思わせる男で、警官をしている。
「彼は僕の友人の部下なんだよ。君みたいなぱっとしない生徒の事なんか忘れていたけど、青木君のお陰で思い出してしまった」
なんと何処までも嫌味な男である。
青木は自分の事を何と云ったのだろう。少なくともこの男からは聞きたくないので後日青木自身に訊ねようと思ったのだが、どうも沈黙に耐えきれず口走ってしまった。
「青木君が何か?」
珈琲カップの下から覗く白い喉仏が上下した。頸も指も細くて折れそうだと云うのに、矢張どこか男性的である。
「先月会った時に君の話をしていたよ。まだ付き合いがあるそうだね」
「ええ、まあ」
歯切れが悪い。結局青木が何を吹き込んだのかはっきりしないまま会話はまた途切れ、振り出しに戻る。もう益田に振れる話題は無い。
そう云えば青木はこの元担任を非常に慕っていたらしい。今でも交流があるくらいだから、そうなのだろう。青木に言い知れぬ距離を感じた。
「――はぁ。まるで溝水みたいだった。ご馳走様」
勘定の札を益田に押し付け満足そうに立ち上がった男は、また無言で出口へと向かっていた。
後ろ姿があまりに細くて笑ってしまう。特別背が低いわけではないが華奢だ。昔からこうだっただろうか。和服と背広じゃ体格の見え方も違うのかも知れぬ。


勘定を済ませ外へ出ると男は一寸肩を上げて寒そうにしていた。もう帰ったものかと思っていたのに、待っていられると困る。
「ところで君こそこんな所で何をしていたんだい」
「えっ。ああ、僕は散歩がてら本を買いに――」
「ふうん。それなら何時でもうちの店に寄り給え。君の語彙でも理解出来る易しい本を見繕っておくよ」
「ええ。そのうちお伺いしましょう」
嫌だ。
何を考えているのか判らない漠然とした畏れ。
平気で浴びせられる棘のある言葉。
表情が乏しい痩せた顔――
何もかも苦手だった。
黒板に書かれた字があまりに綺麗で、こんな字を書く人間は間違いなく神経質だと自分自身が神経質になり不安になった。
学生の時分益田は、高が高校教師に思考や感情を支配されている気になっていたようである。本人が意図せずとも担任の一挙手一投足に振り回され、雁字搦めになっていたのだ。
――所謂トラウマと云うやつだ。
「反論しないのかい。張り合いがないな君は」
肩を二三回軽く叩かれ間抜けな音がした。(この男曰く)溝水を飲んでいる間に外はすっかり陰り、寒くなっていた。この調子では雪が降るかもしれない。
「それじゃあ。精精生徒達に可愛がられ給え」
踵を返した後ろ姿が小さく手を振って離れていく。余程背中目掛けてありったけの不平不満を投げ付けてやりたかったが、矢張畏ろしくて出来る訳がない。
もし青木がこの男に自分の話などしていなきゃ、折角の日曜日を疲労だけで埋めずに済んだかもしれない。こんな惨めな思いは人のせいにだってしたくなる。

嫌いだ。
だから名前も知らぬ。
二度と会いたくない。
気安く僕の名を呼ぶな。
顔も見たくない。
声も聞きたくない。
五感の凡てで拒絶して、身を守るため無くした過去がある日何食わぬ顔で白々しく帰って来る。
ああ嫌だ。何故僕は教師になどなったのだろう――

『将来はどうする』
『まだ決まってないのか』
『教師なんてどうだい』
『僕が嫌いなんだろう』
『教師になりなさい』
『僕を克服してみせ給え』

忘れていた筈の記憶が聢りと形を作って脳髄に流れ込む。忘れたくて忘れた筈の記憶が鮮明に過去を構築する。
無意識下でも自分を苛め続けたあの男が悪霊のように取り憑いて離れない。

――ああ。もう僕は過去へと退化してしまう。