影踏

闇夜に影二つ。
闇を更に濃くしてしまう影二つ。
伸びる。
坂の下の平地まで届きそうになる。

陽が完全に落ちきって尚私は友人宅に居座っていた。鈴虫が鳴いている、涼しい好い夜だ。月が明るい。
家の主は和綴じの草臥れた本の頁を捲るか、たまに顎を撫でる程度で地蔵の様に動かない。私と云えばもう何時間もこうして庭か友人を見たり、這いつくばるようにして本を手繰り寄せては無感動に頁だけ捲った。
活字が一言一句頭に入らない。目が、脳が字を読むことを忘れたらしい。物書き失格である。
「ああ」
退屈でついもれた溜め息か、何か云おうとしたのか己でも判別がつかぬ。否、実際は猫が私の足元を横切ったものだから何と無く口にしただけである。
友人がマッチ棒でも挟まりそうな程深い皺を眉間に寄せて私を睨んだ。
何、睨み慣れていて怖くも何ともない。ただ一寸――後ろめたい。
「何時まで居座るつもりだい」
「ううん――」
頭を掻き乍、寝そべっていた躰をのそのそと起こし欠伸をした。目線の先では私の足元を抜け主人の膝上を占拠した猫が満足気に欠伸をしていた。猫にも欠伸は感染(うつ)るらしい。
「君は猫以下だ」
徐に立ち上がった友人の膝から落ちた猫が不服そうに鳴いて廊下の奥に消えていった。僕はどうせ猿なのだから、猫にはなれるまい。まあ、猿と猫なら知能だけは優っている気がするから――
こうして腑抜けた事を面白可笑しく考えられるうちは善い。何だが漠然と救われている錯覚を味わえる。
乾燥した糸瓜の様にすかすかな頭に友人の拳を一発軽く食らい、成る程すかすかな音がした。
「ほら。立て、馬鹿者」
まだ体勢も整わないのろまな私の襟元を摘まんで万年仏頂面の友人が容赦無く歩き出す。引き摺られ頸が締まり、私は不気味な奇声を上げてしまった。

「持ってお行き」
奇声を聞き付けた細君に見送られ、悪さをした小僧のように頸根っこを摘ままれたまま玄関に放り出された。そして何処から取り出したものか行灯を差し出されたので、受け取るとやっと頸を解放された。
異端の坂道が妖しく照らされる。
そこには影が二つ。
芥川龍之介の幽霊にも影があったので、何だが私は安心して思わず破顔した。初秋の風に包まれて尚私の頭は冷めぬようだ。
どうも今日は腑抜けている。
幼児じゃあるまいし、何がそんなに愉しいのだろう。
「君の影があってよかった」
「それはどういう意味かな」
影が二つして肩を揺らした。
そして影は離れる。
「君の影は心なしか薄いんじゃないか」
影まで罵られるとは思ってもみなかった。

闇夜に影が二つ。
重ならず、ただ列なっていた。