病床

壁が遠い。
私より何尺も離れている筈の壁がじりじりと迫ってくる圧迫感はつい先日から逆になった。どんどん離れていく。部屋が矢鱈広い。何もない部屋に湿った布団が一組だけ敷かれ、其処で私は仰向けになり黙々と天井を見詰める。天井も遠い。私からみるみる離れていく。
社会が、友人が、妻が私から離れていく。否こんなことは私の根も葉もない妄執だけれども、矢張皆遠い。
友人達はよく見舞いに来る。妻は献身的に面倒を看てくれる。本当は社会も完全には遮断されていない。病魔に蝕まれて尚筆を握る私は今までで一番文豪の様だと友人が笑った。
不思議なことに、生活が変わってから私は速筆になったように思う。机に向かえば必ず何かしら書けた。思い通りにならぬ身体に鞭を打ち乍の方が善いなど皮肉なものだ。
医者が何と云ったかは忘れた。軈て死にゆく私には病名など必要ない。里村が一度訪れたが絶対君にはかからぬと念を押した。死体になってから好きにするがいい。〈それ〉はもう〈私〉ではない。
もし完治してもどうせまた毎日が無駄としか云い様の無い自堕落な生活を再開してしまう。それならいっそ今のまま潔く死にたい。精神とは違う、躰そのものの病を背負って初めて人間らしく生きられる様になった。
躰は重かった。変な咳は出るし、食が細い上によく戻す。それでも余程調子が悪くなければ心だけは颯爽としていた。見えるもの、聞こえるものがまるで違ってくる。滝の様な汗も失語症も、赤面することさえ近頃はない。床に伏しているのだから外界との接触が減ったせいだとは云えぬ。私は健康でも人との接触が極めて少なかった。病を以て病を制したかと半ば納得してしまう。
これまで自分が如何に情けなかったか思い知らされ恥ずかしくなった。それを考えると妻が不憫でならない。だから一度妻に家を出るよう奨めたことがある。私がこの様じゃ今まで以上に妻が苦労するだろう。剰えあの日は極めて調子が悪く、参っていたので口を滑らせた。
――雪絵。君ならもっといい亭主の元へ嫁げただろうに。
しかし彼女は声を荒げた。憤慨する妻のそれが大層愛しく想えて場違いにも私は笑った。
「出ていくものですか。此処はタツさんと、私の家です――」
迷惑ならたった今始まった話ではない。ならば今とて苦ではないと云う。額を滑り頬をなぞった妻の温かい指の感触は今でも鮮明に残っている。

はらり、はらり。
紙の摺れる音が聞こえる。今日は快晴なのだろう。布団から唯一出ている顔がほんの少しだけ春を感じている。妻が襖を開けてくれたのかもしれない。暖かい空気が擽る。
はらり、はらり。
卓上の原稿が風で捲れている音か。
煙の匂いがする。否これは煙草の――
「――京極堂」
枕元より二尺程離れた所で友人が煙草を吹かし乍何束か紙を握っていた。ああ、まるで葬式の最中の様な顔だ。私はまだ生きていると云うのに。
愚図愚図と半端に上半身を起こして友人を盗み見たがどうも私のことなど気にもとめぬ風である。相変わらずの顰め面はもう1ヶ月振りかもしれぬ。つい先日榎木津が来たが、あれは寝るだけ寝て帰った。私より寝ていた。
「病人の枕元で煙草を吹かすとは君は本当に――」
「関口君、これは君にしては中中善い作品じゃないか。文豪らしくしている甲斐があったな」
本当に厭な奴だ。
京極堂が手にしているそれは先日榎木津がぐうぐう寝ている間に書いたもので、私にしては一寸穏やかな作品である。
「いつもの鬱悶とした作風はどうしたんだね。躰が病んだら心の毒が落ちたのかい」
「煩いなあ。ほっといてくれよ――おい、京極堂。雪絵は」
「少し前に出掛けたよ。雪絵さんもこう毎日君のような男の看病じゃあ気が滅入るだろう。うちのと出掛けるように云ったのさ」
友人は妻の外出中、留守番を申し出たらしい。
「で、どうなんだい調子は。顔色は良いし、然程悪そうには見えないね」
這いつくばる様に此方に向かってくる友人が何だが妖怪の様である。気味が悪いと思った刹那、距離を縮められ胸元を少し乱暴に押された。枯れ木の何処にそんな力があるのだか。
「寝ていろ。僕がいるうちに発作でも起こしてみろ、雪絵さんに会わす顔がないだろう。死ぬなら僕が帰ってからだ」
「ああ」
掛け布団を引き寄せ顔を半分隠して笑った。私を友人と呼びたがらない臍曲がりな彼でさえ一寸は心配してくれている。
自惚れでも構わない。
「これだけあれば一寸は足しになるだろうね」
何の話か理解するのに時間を要した。
原稿――ああ。私は雪絵を案じて筆を握っていたのか。そうなのかもしれぬ。
無意識に字を書き連ねていた訳ではない。私のような無名作家の本だって幾らか原稿代は出るし、遺作と銘打てば少しは注目される。足しにはなるだろう。
「出版する時には発表順だとか――また君に任すよ」
返事は貰えなかったが肯定なのだろう。
それから少し沈黙が続いた。京極堂は今まで私が書き溜めた原稿を全て読むつもりらしい。極端に短いものから、半端に長いものまで様々書いた。読み返してはいない。あまり自分の作品は読みたくはないのだ。それは以前と変わらぬ。
「関口君」
「――何、だい。僕は病人だから、寝るよ」
「ああ。好きなだけ寝給え。君は寝るのが得意だろ」
呼んでおいて酷い云われ様である。友人はまだ原稿用紙を何束か持ったまま顎を撫でている。
出掛ける前に雪絵が淹れたらしい茶はもう空かもしれない。
「僕に書いてくれないか」
「――は?」
「僕に書いてくれないか、と云っているんだよ」
「――はあ」
今度こそ理解出来なかった。逆光で表情は読み取れないし、実は本当に一寸眠いのだ。
「十五六年程前の事だよ。覚えているだろう?」
「――うん」
声が遠い。それなのに遠くで鳴く鴉の鳴き声が鮮明に聞こえる。
ぼんやりとした視界の中で活動写真の様に様様なものが過っては消えて、妙に脳裏にこびりついた。
真っ黒な学生服。
煩わしい顔に薄暗い部屋。
汚れた靴と割れた窓。
湿った教材。軋む床。
散る桜。落書きの壁紙。
埃が積った実家の手紙。
未発達な声帯。
骨張る躰。黴臭い万年床。
雑な走り書き。
積み上げた本の山。その向こうで少年が何か云っている――
『僕に君を残してくれよ』
記憶の中の何かが枕元で微笑んでいる。泣いてるのかもしれないし、矢張笑っているのかもしれない。
「――中禅寺」
微睡みの中に浮かぶ友人は死神にしては優しげで、まだ命は奪われそうにない。
暫く瞼は縫ったように開かないだろう。あの少年の夢を見る為に――
『お休み、関口君』

壁は再び近付いて来た。