あまりにも暗いので、今自分が外に居るのか屋内に居るのか判らなくなった。暗闇は何処までもだらだらと続いている。鳥目ではないから辛うじて自分の手足くらいは見えている気になったが、矢張先の方は何も見えない。そもそも先なんてものは無いのかもしれない。
しかし此処はただの廊下である。廊下なのだから果てはあるし、元々それほど長い距離はない。
ふと、人が近付いてくる気配がした。気配はするのだけれど跫が聞こえない。人形をした闇が目前に現れて尚、この場には自分以外何者も存在していないように思えた。
暗闇に浮かび上がった感情の読めない瞳はまるで動くことなく静止し、湿り気のない視線がただ一点私を視ている。
「こんな時間に何をしている」
返答はない。
見慣れた筈の弟の顔が闇を纏って、見ず知らずの言葉も通じぬ異国の民の様に思えた。
「麓介、寝呆けているのか?今晩は冷える。部屋に戻りなさい」
私の言葉に何の反応も示さぬ弟の瞳は尚も私を見詰めている。反らすことが許されぬとでもいうように合わされた私達の目線は、まるで交わることがない。
「聞こえているのだろう、麓介」
虫の鳴き声や風の戦ぐ音すら聞こえぬ宵闇に、私の声だけが虚しく響いた。
「今」
口元が動いたのを除いて弟の顔は凍りついたままで、その表面にも内面にも表情と呼べるものは存在しなかった。
「今絡繰りが作動したら俺は死ぬな。避ける体力がない。厠に行くのだって精一杯だ」
この場には弟と私しか居ないのだからその言葉は確かに自分に向けられている筈なのだが、まるで独り言の様な虚しさと薄ら寒さを感じた。
邪魔だと無言で告げるように肩をぶつけて鈍い動きで歩み去って行く弟の姿が、闇のずっと奥へと呑まれるように消えていくのを私は見ていられなかった。