慈悲

まだ倫が生まれるより以前、兄と二人で川原へ出掛けたことがある。そこはとても浅い川だった。流れは穏やかで水質のよい川だったが私は嫌だと捏ねり、私だけ水に浸からなかったのを覚えている。
草むらに座って兄を恨めしそうに見ていると川から上がってきた兄がびしょ濡れの手を自分の服で拭いながら私の隣へ腰を下ろした。
「望、笹舟の作り方を知っているか?」
兄を川へ戻すまいとしがみつき、教えてくれと強請んだ。兄が船を作る草を探していると誰かが私達の名前を呼ぶ声が聞こえてきた。時田が迎えに来たのだ。
また今度と残念そうに笑う兄に一瞬顔を顰めたが拗ねていると思われたくない一心で気にしていない素振りをした。

今私はある川に架かった橋を渡っているのだが、ふいにそのような幼い頃の記憶が蘇った。
この川はあの川とは違い水位の高い川で苔色にひどく濁った水が更にその違いを引き立たせている。
橋の塀から身を乗りだして川を見下ろしていると、このまま落ちたらどうなるだろうかと思い付いた。
この塀をよじ登り、飛び降りたら水は冷たいだろうか。濡れた着物が体に張り付く感覚を想像して氷を背中に押し当てられたような戦慄が走った。
私の小さな心臓は水の冷たさに縮みあがり、仄の暗く底の知れない水中で弱った体は岸に辿り着くことを諦めて沈んでいきそうだ。
やはり死ぬだろうか。
ほんの少し残る自制心により飛び降りることを思いとどまるのだが、どうせ私には死ぬ気など端からないのだ。

ある日偶然に兄とその川の橋を渡ったことがある。
「望、少し降りてみないかい」
とくに急ぎの用もない私は構わないと答えると兄は川の畔へと続く階段を降りていき、私にも早く降りてくる様に促した。
川岸をしばらく歩いていると兄は突然立ち止まり、そこに屈んでしまった。
「望、笹舟の作り方を教えてやろう」
首だけ私に向け微笑んだ兄の顔はあまりに慈悲深く、私は言い知れない絶望を感じた。
こんな人が私の兄だなんて。
船を作るのに相応しい細長い葉を見つけ手本を見せてくれた兄はその船を無言で川へと流した。
「私は砂利の上を歩くのが頑として嫌だったのです。きっと砂利の上は凸凹して痛いだろうと。それに川の中では魚や他の生物達が生活していて、排泄をしているんです。そこに足を浸けると言うことはまるで肥溜めの中に立つも同然だと思っていました」
だから私は川へ入りませんでした。
今更こんなことを告白しても仕様がない。それでも何故か話さずにはいられず、堰を切ったように語り出した私に兄は相変わらず微笑んでいた。
「お前は昔から可笑しなところで潔癖だね」
伸ばした腕の先の指数本が目の前に広がる溝の様な川の水に浸かったのを呆然と見詰めた。
「汚いですよ」
「あぁ」
そうだねと言った兄の顔がこの時ばかり悲しげに見えて私もその水に触れているような不快感に苛まれた。
「どうかこんな川に身投げしてくれるなよ」
後生だから。
すがるような兄の声に動揺してしばらく黙り込んでしまった。
「はい」
絞り出した声が震えていたので心配したのか、兄が肩をさすってくれた。
あぁ。私は兄の優しさにまるで水中の様な心地よい息苦しさを感じ、数秒呼吸を止めてみたのだった。