臍曲

「貴女が探していた本、これで間違いありませんね?」
頭上から届く不安定な声色に耳が痒くなった。
声の主が私に差し出した一冊の本は、時代錯誤で立派な表装に似合わないちんけなタイトルのハードカバーだった。
「先生、これ」
「随分探さなければならないと思いましたが、行き着けの古本屋にあったので簡単に手に入れることが出来ましたよ」
「そうですか」
読書と言えば漫画だとか挿絵の多いライトノベルだけだった私が、たった一度だけ先生と本の話をしたことがある。小さい頃親に読んでみなさいと言って渡された古びたお下がりの本を最初の数ページしか読まずに無くしてしまった事を私は話した。ファンタジーだったような気もするしエスエフだったような気もするほど記憶は曖昧で、それでも主人公の名前だけは覚えていたのでそう伝えた。
「私も幼い頃、兄さんのお下がりで読みました。名作は受け継がれる物ですね」
「ええ」
物思いに耽る様な素振りで自分の発言にうんうん頷いている貴方に、今自分が言うべき言葉を整理した。
あんなに少ない情報からよくこの本だと解りましたねと賛辞の言葉を掛けるとか、今度はちゃんと全部読んでみますとか言う事は沢山あるが、一番必要な一言が頭を過った。
「わざわざ買ってくるなんて。先生、パシり癖抜けてないんじゃないですか」
肚が立った。この人の前で私はどうしても天の邪鬼で、ありがとうの一言すら口に出来ない。
後ろめたさからちらりと覗き見た彼の顔はいつもの不服そうな面相よりはずっと人間らしく、むしろ自分がしたことに満足しきって私の皮肉など聞いていたいようだった。
「如何しました?」
不思議そうな顔をしているけれどその表情は、突然しおらしくなった私に対する怯えや焦燥を隠しきれていない。
「私帰ります」
「え、ええ」
誰もいない教室に椅子の脚が床を引きずる音だけが大きく響いた。もう狼狽えた様子を隠しもせずに逡巡している彼の足元だけを視界の端で捉えながら、吸い寄せられるように扉へ向かった。
たった五文字のありふれた言葉が言えないばかりに、自己嫌悪どころか自己欺瞞に陥って癪を起こしている自分がひどく馬鹿らしくなった。
素直になれない。だから肚がたつ。
「先生!」
勢いよく開いた扉が壁にぶつかって閑散とした教室と廊下をかき乱した。振り返って見てみれば、私が突然大きな声を出すものだから肩を強張らせた彼が今度は隠しもしない嫌悪や怠惰な表情を貼り付けて右の頬を引きつらせていた。
(さ・よ・う・な・ら)
口の動きだけで伝えたこの五文字を貴方が勘違いしてくれたら良いのに。母音が同じならまだしも、こんなに違う二つの言葉を混同するのは絶対に無理だということは解る。だけど私はまるで暗示にかかったみたいに、さようならがあの言葉にすり替わったような気になった。
「それがわざわざ呼び止めてまで言う事ですか!絶望しました!」
「ふふ」
ありがとうの一言が貴方に届かない。