延命

「先生」
突然右手を差し伸べ、彼女は言った。左手は背後に回して何かを隠している様だった。
「何でしょう」
「手を」
――またあの顔だ。
悲しみをぐっと堪えて、それでも心の底から笑っている様なあの笑顔。あの表情を目にする度、ちくりと細い針の先が刺さるような小さな傷みをもよおす。その傷は日々蓄積されて、私の心は最早傷だらけである。心が心臓ならば針で刺した小さな穴から血はどくどくと流れだしていることだろう。
「綺麗な手」
「怠け者の手です」
指が長いのも、爪の形が良いのも全ては遺伝である。私の父も母も、兄妹も皆形の良い手をしている。
確かに私の手には逆剥けの一つもない。しかしそれは私が何もしないからである。水仕事をすれば多少の手荒れもあるだろうが、私は料理もしなければ風呂の掃除すらしない。インクやチョークで汚れることはあっても、切り傷を作ったりすることなど然う然うないだろう。
「ふふ」
不意に声を漏らして笑った彼女が、私の手の平に刻まれている皺を一筋、つうっと人差し指でなぞった。
「生命線」
私の生命線の長さは恐らく人並みである。人並みではあるが、線自体は細い皺が幾重にも重なってなっているだけで、しかも所々途切れているものだからどうにも心許ない。
私はこの手相が嫌いだった。
自分を象徴するようなこの生命線が心底嫌いだ。
「目、瞑ってくださいね」
言い付け通り瞼を閉じて視界が暗闇に包まれると、自棄に耳が効くようになる。
布の擦れる音とまた彼女が微かに笑った気配。この空間の外から聞き覚えのある声がする。
「あっ」
思わず声をあげたのは、手の平に感覚を得たからである。冷たい、硬い何かが私の手の平を伝う。
「先生」
目を開けろと促されているのだと思い瞬きを再開するのと同時、彼女が手にしているペンの蓋を閉じた。
「隠していたのはそれですか」
そこでふと開いて差し出したままの左手に目をやると、再び彼女の笑い声が真綿の様に耳を擽った。
「これで安心です」
黒い一筋の線。
油性ペンで書かれた生命線は、滲んで細かな皺の隅々まで染みている。
これは、恐らく風呂にでも入らぬ限り落ちないだろう。
「噫、風浦さん。これは」
目を細め、まるで子供を慈しむ母親の様な顔をして彼女は何も云わなくなった。
「貴女の所為で当分の間、死ねなくなりました」
何故か目頭が熱くなった。
私はそれを油性ペンの刺激臭の所為にした。