夕焼

たった一度だけ兄と手を繋いだ事がある。それが幾つの時の事か思い出せないが、兄が学生服を着ていた事だけは鮮明に覚えている。
何処かからの帰り道なのか、外を二人で歩いていると空が見た事もない橙色をしていた。その恐ろしい嘘の様な色が幼い私を酷く不安にさせたのだ。
絵の具や色鉛筆の橙色である。あれは普通の、自然にある色ではない。今夜地震でも起きるのではないか。そんなことを考えた。
「兄さん」
立ち止まって呼び止めると、平素の顰め顔を更に不機嫌なものにして兄は私を睨んで言った。
「置いて行くぞ」
それだけ言ってさっさと歩き始めた兄の身体まであの空と同じ作り物の橙色に染まっていた。
兄は下ばかり向いて歩いているから気付いていないのだ。だから私が教えてあげなければ。
「空が」
離れてしまった兄の方へ駆け寄ると、全ては言えずにまた空を見上げた。
音がしない。鳥も鳴かない。誰の話し声も聞こえない。車の走る音も、周りの家から生活音の一つも聞こえない。だから余計不安になった。
訝しげに私を見下ろしている兄が空を見上げてしまったので、私はちょっと背伸びをして兄が掛けている眼鏡の上から夕焼け空を手で覆ってやった。
「止めろ、眼鏡が汚れる」
感情のない小さな声が、夕方の冷たい空気を震わせた。
それなのに、その時私を咎めた声は決して怒っている訳でもなく何故か澄んでいて、あの異常な空を警告した私に感謝さえしているように思えた。
兄がまた私を置いて歩き出そうと顔を背けたその時、私は少しだけ笑って黒い学生服から覗く兄の手を取った。
「帰るぞ」
そう言って手を振りほどく事もなく歩き出した兄の指先には、空と同じ鮮やかな橙色の絵の具がついていた。