電話

予期せず私を襲った電話のベルが閑静とした深夜に鳴り響いた。あまり働くことのない自宅の黒電話が喧しく騒ぎ立てる時、大抵その発信者は決まっている。自ら使う事など滅多にないのだから処分して仕舞ったって善いこの電話を、いつまでも置いているのは私の優しさだ。
冷えた受話器を持ち上げ姓を名乗るが、どうせ相手も同じ姓なのだから名乗るだけ無駄な事は明白である。
「兄さん」
弟は非常識な時刻が好きらしく、今だって時計の短針は二だか三を指している。癇癪を起こしたら負けだ。辛抱強くなければ此奴の身内として務まらない。
「望、昨日ニュースを見たか?女生徒に誑かされた高校の男性教師がそれをネタに脅迫されて、その腹いせに女生徒を校内に軟禁していたのが知れて逮捕されたそうじゃないか。私はてっきりお前の事かと思ったよ。まあ、お前の場合逆に軟禁されて仕舞いそうな質だがね」
「失礼な!出鱈目言わないでください。私の用件は」
「なんだ他の事件か?一寸前にあった強姦魔とか。自首なら警察にしろよ」
返答がない。流石に言い過ぎた自覚はあるが、私には悪気も邪心もないから全く後ろめたくない。こんな時間に私を起こした、それこそ腹いせである。
「ああ、判ってるよ。悪かったって。で?こんな時間に何だ。下らない事だったら承知しないぞ。教師の安月給で散々飯を奢って貰うからな」
「交が」
「交?彼奴段々兄さんに似てきたよなあ。目付きが悪いところなんかそっくりだよ」
「真面目に聞いて下さいよ。交が体調が悪いって言うんです。熱は三十七度なので高くはないんですけど」
「何だ。矢っ張くだらないじゃないか。鰻だな、鰻」
「鰻?」
「お前の奢り」
受話器越しに溜め息だか舌打ちが聞こえた気がする。可笑しくて失笑しかけて仕舞った。
「それでも医者ですか」
「これでも医者ですよ。そう向きになるなよ。今日朝一で連れて来れば好いだろう、診てやるから。交だってもう幼児じゃないんだから一寸熱が出たくらいで騒ぐな。風邪でもなんでも経験すれば善いのさ」
「私が高熱で死にかけた時も同じこと言いましたよね。何が経験ですか、この藪医者」
「うちの玄関は然程立派じゃないよ」
藪医者の玄関とは言うものの、玄関が立派ならそこの医師だって立派だと私は個人的に思う。
遂に話題も尽きて少しの沈黙を挟み、弟は急に萎らしくなって言った。
「こんな時間にすみませんでした」
「ああ。別に構わないよ、慣れているからね。交、汗かいてないか?服取り替えてやりなさい。水飲ませて、暑がるようなら氷嚢出してやってさ。取り敢えず今は寝ることだな。じゃあ、お休み」
「ええ、そうします。お休みなさい」
随分と話し込んだ気がするのに終わりは何時でも呆気ない。交もあんな保護者では些か不安だろうが、幼い頃に看病された記憶と言うのは成長しても意外と鮮明に憶えているものである。嬉しいのだ。
私は鰻に向け期待に胸を膨らませ再び蒲団へ雪崩れ込むと、妙に爽朗とした心持ちで眠りについた。