杏子

幼稚園に通っていた頃、アンちゃんという友達がいた。アンちゃんは勿論日本人で、赤毛ではない。皆がアンちゃんと呼ぶので倣ってそう呼んでいただけで、私は彼女の本名を知らない。アンちゃんはあくまでもずっとアンちゃんだった。
アンちゃんは可愛い子だったけれど、特に何かずば抜けたものがあるわけでもないし普通のどこにでもいる幼稚園児だったと思う。アンちゃんには私以外の友達がいたし、私にもアンちゃん以外の友達がいた。幼稚園から家が少し遠くて、送迎バスで最後に残るのがいつも私と彼女だったから私達は自然と仲良くなった。
アンちゃんはよく空を見上げて、昼でも星や月が見えることを教えてくれたり、宇宙には地球のような惑星が沢山あることも教えてくれた。何故そんなことに詳しいのか今となっては解らないし、もしかしたら出鱈目だったのかもしれないけれど、当時何も知らない私は物知りなアンちゃんにちょっと憧れていた節がある。髪を短く切ったのも、アンちゃんがショートカットだったからだった。



「奈美ちゃん、ありがとうね」
七月の蒸し暑さが嫌というくらい極限に達した日の放課後、突然彼女は私に礼を言った。私は彼女に何か感謝される身に覚えがなかったので逡巡するばかりで、ただでさえ素行のわからない娘だから尚更焦った。
「私何かした?」
彼女はクスクス笑うばかりで、しばらくは今日は暑いねとか関係のないことばかり言ってははぐらかした。
「ベガとアルタイルが親切に奈美ちゃんの願いを聞いてくれたみたい」
ちょっと今更だよねと言って彼女はまたクスクス笑った。
「ベガって?何?御免、全然解んない」
「大丈夫、解らなくてもいいよ。でも奈美ちゃんのおかげなの。有り難うね」
そう言って窓側に体を移した彼女の横顔を見て何か思い出したような気がするのに、実像を結ばない不思議な翳は掴めることなく宙をさ迷った。
「御免ね」
お礼を言われていると言うのに私は何故か謝ることしか出来ず、思い出しかけたものは全て靄のまま消え去ってしまった。
それでも彼女は何が可笑しいのかまだ笑っていた。



お遊戯会や何かの発表会で私はアンちゃんのお母さんのを見かけたことがない。
――お母さん、ずっとお風邪ひいてるの。
確かそんなふうに言っていたような気がする。今考えると彼女の母親は何か病気で入院していたのかもしれない。だけど何も知らない幼い私は無邪気で、お母さんが大好きだったから、アンちゃんのお母さんも早く元気になりますようにと七夕の短冊にそんなことを書いた。自分のお母さんが病気になったらとっても悲しいから、アンちゃんが可哀想だと思ってそう書いた。でもアンちゃんの短冊には、よく解らない難しいことが書いてあった。
――あのね■■■■■は地球のずっとずっと遠くにあるお星様なんだよ。わたし、いつかそこに行ってみたいの。きっと奈美ちゃんも連れていってあげるね。
アンちゃんはこの話をする時だけ本当に楽しそうに笑っていた。