模造

私は私と対峙している。
木炭で描かれた真っ黒な私は膝を抱え蹲っている。
兄は使わなくなった土蔵をアトリエにしていた。この陽の届かぬ薄暗い部屋では、裸電球の心許ない光だけが太陽であった。
絵を描くのにこのような環境が適しているのか私にはよく判ないが、この土蔵のアトリエが私はお気に入りだった。埃臭いような据えた臭いがして、それがなんだか落ち着くのだ。乾燥もしない、湿ってもいない不思議な室温が心地好くて、兄の留守中も度々忍び込んでは何をするでもなく時間を潰した。
何時から兄が自分をモデルに絵を描きだしたか思い出せないが、もう可成りの回数描かれているように思う。
様々な私が貼り付いた画用紙の切れ端が床中に散らばっている。それを踏みつける家具や私の脚。
倒れたままの油壺はからからに渇いている。机の上にはいつも絵の具が乱雑に広がっていて、ナイフや乾燥したパン屑も一緒くたになっていた。
目についた絵の具のチューブを一つ手に取り、それを握ったまま私は再び私と対峙した。アルミ箔の様な冷たい無機質な感触が手によく馴染む。
そういえば兄が絵の具を使っているところを見たことがない。イーゼルに掛かったままの私はもう何ヶ月も手付かずのまま布を被されていた。
この絵を描き始めたのは多分もう半年も前である。この半年で私はすっかり変わってしまった。
成長が目紛しい。そして知りたくもない事が次から次へと私に襲いかかってくる。
先ずうっすらと、それでも産毛とは違う体毛が生えだした。近いうちに声変わりもするだろう。もう成長することから逃げ仰せない。
体毛は幾ら剃ったって直ぐに新しく生えてくる。況してや体格や声帯の変化も防ぎ様がない。
始めは成長する事がなんだかこの上無く穢らわしい事のように思えた。最近では恐ろしいような寂しいような、自分でも判別し難い感情に呑まれている。
大人は嫌いじゃない。でも自分が大人になるのは嫌だ。
何時までも子供で居れば、此処に居ることを許されるから――
「命、居たのか」
平素の声より幾らか驚いたような言い方で歩み寄ってくる兄を一瞥して、私は右手を強く握り締めた。チューブは私の体温ですっかり温い。
「この絵は完成しないのですか」
左手でイーゼルを撫で乍ら訊くと、伸ばした髪を掻き乍ら兄は言った。
「気に入ってるのか?」
「わかりません」
この絵について答えるのは、自分について語るのと同義であるような気がして答えられなかった。
「この頃はまだ子供で居られたのに」
このデッサンが描かれた数日後には精通があって、それが知れるや否や面白がった書生や小間使い達に必要のない事を散々教え込まれた。今ではもう飽きたのか何か手出しされる事はない。私は彼等を恨むでもなく、彼等が言うところのお愉しみを実践する事もない。
「今だって十分子供だろう」
面倒そうに兄が言う。
「いえ、もう完璧な子供ではありません。望や倫とは違う――ずっと子供で居られると思っていました」
「そんなに子供でいたいか」
答えられず黙したままイーゼルの木目を眼でなぞった。
子供でいれば兄に甘えられる。
子供でいれば何も知らずに済む。
子供でいれば――
「今のうちに死ね」
「え」
「子供でいたいのだろう」
大人になると云う事は成長する事で、確かに死ねば成長はしない。
兄は握り締めていた私の右手を掴んで開かせると、何も言わず溜め息だけを吐いた。私の掌には潰れたチューブからカドミウムレッドの血が漏れている。
「兄さん。それなら、私はこのまま大人になるか死ぬかしかないと云うのですか」
「何が。意味がわからない」
イーゼルに掛かっていた布を剥がすと、それで絵の具を拭い乍ら兄は私の顔を見もせず言った。
隠されていた布を失って、真っ黒な私が恨めしそうに此方を見ている。
「訳の解らない事を言うな。もう描いてやらないぞ」
「描いて呉れなんて頼んだ覚えはありません」
真っ赤になった布を机へ放り投げると、兄は手を洗って来いと野良猫を追い払う真似をした。
「兄さん」
――この部屋は私だらけだ。
作品はどれも白と黒のまま無表情で、まるで感情がない。
「俺は元々絵なんか滅多に描かなかったんだよ。しかも油絵なんか真っ平御免だ。面倒臭い」
兄の足下で私が一枚破けた。
噫、この部屋は――
この部屋は、異常だ。
私の貼り付いた紙が壁中を埋め尽くして、それは床にまで及ぶ。
私、私、私、私私私――
秘密の隠れ家のように慕っていたこの土蔵が、こんなに恐ろしい場所であったと、ただの一度も思い至った事はない。
今すぐ此処から逃げ出して、父や誰かに助けを求めたら如何なるだろう。
しかし身体は其処から動こうとしなかった。
「命、死蝋ってのは上手くいけば半永久的にそのままの姿を保っておけるんだ。子供でいたきゃそうするんだな」
兄は狂っている。
一歩後退すると私の足下でも紙の破れる音がした。
「俺は彫刻の方が得意なんだよ」
その日、私は初めて兄の笑顔を見て仕舞った。