残骸

白衣の男が微笑い乍ら歩み寄ってくる。硝子窓から差し込む陽射しで身体は照らされているのに、顔は翳っていて完全に表情は汲めなかった。それでも微笑っている事は判る。
「新井先生知らないかい?もう帰って良いか訊きたいのだけど、どうも見当たらなくて」
首を横に振り知らない事を示す。来週ある健康診断の打ち合わせで学校を訪れている事や、新井教諭が見当たらないので黙って暇する事も出来ず校内を彷徨いているのだと矢継ぎ早に説明された。
自分より頭半分ほど高い彼の眼の位置から見下げた僕は、先程の彼のように翳って表情までは見えないだろう。下から見上げた彼の顔は仄の暗い廊下の中でぼんやり浮かんで見えた。困ったような、それでいて楽しんでいる様にも思える。
「昼休み?飯はもう食べたの?ああ、これから何処か行くのか?図書室?」
話し掛けられて直ぐ四つも質問をされたのは初めてである。また首を振って否定すると、気のない短い返事が返ってきて終わった。
屋上へ上がるつもりだった。屋上は去年の暮れに侵入禁止になり、今では誰も近寄らない。その屋上の鍵が実は壊れていて、簡単に外れる事は恐らく僕しか知らないだろう。僕だけのテリトリーだ。昼休みは大抵其処で本を読んだり、昼寝をした。
「久藤君?聞いてる?」
聞いている。
「先から何も言ってくれないな、君は」
頭を掻き乍ら彼が言う。このたった数分で愛想が尽きたのかも知れない。元からそれほど親交があった訳ではないし、それなら尚更僕のこの態度は相手を不快にさせるだろう。解っていて敢えてそうしているのだ。
「屋上」
やっと言った一言である。
屋上?と反復した彼の顔を真面に見上げると、態とらしく首を傾げていた。
――昼休みは大抵屋上に居ます。
必要がないから言わない。
帰りたいのなら帰れば良いのに、変に真面目なこの医者は多分この後も校内を彷徨くつもりなのだろう。
「ふうん、じゃあ行こうか」
掲げられた右手の人差し指が、薄暗い天井を示していた。



「おや、鍵が壊れてるのか。さては君が壊したな」
声だけは愉しそうに、振り向かずに彼は言った。彼の背中と屋上へと続く扉の隙間から淀んだ水色が覗いている。
風がなかった。陽射しばかり暖かくて気温は温く、あまり気持ちの良い天気とは言い難い。
「ああ、もうすっかり春の陽気だな。孰れ君も進級か」
空を見上げたまま彼が言う。白衣のポケットに入れたままの両手が、中で何かを弄ぶ様にごそごそと蠢いていた。
何故屋上が突然閉鎖されたのか、理由は僕も彼も知っている。その屋上の鍵が壊れたのが本当に偶然だったのは僕しか知らない。
開かないと解っていても引かずにはいられなかった扉がいとも簡単に開くとは、まるで自分も死ねと何かに唆されているような気になった。
「彼奴が最期に見たのと同じ地面かな」
そう言ってグラウンドを見下ろしている彼の横顔には、悲しみより後悔が滲んでいた。
事実、悔しいのだろう。あれだけ死ぬと前言していたのにも関わらず、みすみす殺したのだから仕方が無い。恐らくあの人を知る誰もがそう思っているのだ。
あの人は自殺をした。投身自殺をした。あの人が自殺をしたから屋上は閉鎖された。
「何故自殺だと断定するのです」
確かにこの屋上から地上のグラウンド目掛けて落ちていった事は事実だが、何故それが彼の意思だと言えようか。
「君が殺したとでも言うのか」
僕は殺していない。僕は何も知らない。
「いつもの様に自殺する風を装っていたところを誤って転落して死んだとでも言いたいのか」
その方がいいと思った。彼には自殺なんて似合い過ぎているから、逆に腑に落ちないのだ。肚の座りが悪い。
認めたくなかった。
「これ以上あいつを馬鹿にするのも大概にしろ」
彼を象徴する涼しげな口調が、明らかに色を変えていた。その口吻はまるで僕を蔑むような、温度の感じられない非情なものだった。
「何も知らない癖に出鱈目を言うな。君のような高が一生徒に弟を愚弄されるのは不愉快だ」
死ぬほど悲しい思いをしていたとか、死ぬほど辛いことがあったとか、自殺に相応する動機というのが彼にあったと、彼はそう言いたいのだろうか。
そんなものはまるで無意味だ。何を詮索しても、理由など本人にしか解らない。そもそも自殺をするに相応しい理由など、この世には存在しない。
彼は墜落の衝撃で潰れて、半分ほどカタチをなくしてしまっていた。結局そういった虚しい結果だけしか残らない。
――あんな残骸を見てもそんなことが言えるだろうか。
買い被っているのはどっちだ。
グランドに拡がる無惨な亡骸に、学生服をかけてやったのはこの僕なのだ。
顔面の半分なんて陥没してなくなっていたじゃないか。あれはもう人間とは言えない。
「先生は死にました」
解りきっていることを敢えて口にする事で決着をつけられるような気がした。
これ以上言い争いを続けるのはあまりにも無駄で馬鹿らしく、よくよく考えれば僕と彼は殆ど他人なのだから本来であればこんなことになる筈がないのだ。
結局過去を遠ざけて目を伏せていたのは自分で、そんな自分に気付かぬ振りをしているから、事実を告げられることが一番恐ろしいのかもしれない。
沈黙の中見上げた横顔は、フェンス越しに覗く校庭の桜を見詰めたまま睫毛の一本すら動かずに静止していた。
「あの、先生」
彼のことを呼んだことがないので何と言えば良いのか、一言声を掛けるだけで非常に逡巡した。
医者である人間を先生と呼ぶのは間違ってはいない。それなのにまるで自分が彼に対して心ない酷い仕打ちを強いているような罪悪感を感じて、いたたまれなくなった。
「先生」
それでも呼ばずにはいられない。
先程から黙ってしまった彼が次に何を言おうがそんなことは構わないのだ。
昼休みの終了を告げるチャイムが鳴り出すと同時、振り向いた彼が僕を屹度見詰めた。
「君の先生は死んだよ」
記憶の中と寸分違わぬ同じ顔が残骸の中に見えたものを克明に呼び起こし、僕の記憶はそこで途絶えて仕舞った。