愛撫

母が亡くなった。
母の死に顔は知らない。見れなかった訳ではない。見た筈の母の遺体は、何故か顔だけがぼやけて象を結ばなかった。
見慣れぬ大人達が口々に眠っている様だとか云って母を愚弄した。死んでいるのに、何が眠っているようだだ。なんて無神経なのだろう。
母は綺麗な人だったから死に顔だって美しくて当たり前だけれど、死んでいることに変わりはない。このまま放置すれば孰れ腐って仕舞う。
然う、だから矢張母は死んでいるのだと思い知る。
もっと気が付くのが早ければと言って自分を責め苛んでいる兄が莫迦らしく思えた。もう既に母は死んでいるのに何を今更嘆くのか言い訳をしている様にしか見えず、私は大層肚がたった。私は医者だから、私は医者だぞと幾度となく聞かされた台詞が頭の中で浮かんでは消えた。
医者なら何だと言うのだ。
兄のことは嫌いではない。母の葬儀が行われたあの日から、私は目に映るもの凡てが疎ましく嫌になって仕舞った。
だから父が母の着物を私にくれた時、父の考えが理解が出来ず私は激しく怒り狂った。あの時の私には、父のその行動が母や私を貶める非道な行いにしか見えなかったのだ。
私は母によく似ていた。だから母の生き写しの様な私に、父が欲情するのではないか。若かった頃の母を彷彿させる私に邪な想いを持っているのではないか。根も葉もない妄執は膨張し爆発した。
あれから暫くして、あっという間に日常が帰ってくると、母の居ない世界は何食わぬ顔で当たり前に過ぎていった。

「倫、その着物は一体如何したんですか。何だかお前らしくないですね」
母が亡くなって最初の法事の席に、私達兄妹は揃って実家に集まっていた。居間の華を活けていると声をかけられ、気が散ったので誤って花を切り落として仕舞った。
「御兄様。これ以上は私、手が滑っても知りませんわよ」
鋏を握った方の手を翳すと、兄はひっと短い悲鳴を上げた。
「ねえ、望御兄様。御母様が私に最期に何と言ったかご存知?」
「唐突ですね」
「すっかり笑っておしまい」
「え?」
「だから、すっかり笑っておしまいですって。御母様ったら死ぬ間際で頭が朦朧としてらっしゃったのね。まるで意味が解らないわ。すっかり笑うって何なのかしら。もっと感動的なお別れの言葉があったでしょうに」
「化けて出てくるぞ」
先ほど切り落として仕舞った黄色い花が、母のお下がりの銘仙に馴染んで文様になった。
「いいじゃない。幽霊でも会いたいわ」
「――ああ」
記憶の中の母は、あの台詞を何度も何度も繰り返した。記憶の中の母は、きっとこの先もずっと年をとらず永遠にそのままの姿で微笑みかけてくれる。
頬を摘まんだり、髪を結ったり、謡を歌ったり、母はいつでも優しい。
大好きだった。大好きだったけれど、死んで仕舞った。死んで終(しま)ったけれど、私は生きている。
いつか私が母を追い越すほど老いた時、もしかしたらあの台詞の意味が解るのかもしれない。

御母様、貴女もすっかり笑えていらっしゃいますか?