蠢爾

心療室の患者用椅子に腰掛けた人物は俯いたまま動かず、もう数分間ほど黙ったまま固まっている。しかし彼女は患者ではない。この病院には患者以外の客しか来ないのだ。
「倫。望の誕生日のことだが、何か祝ってやるつもりか?」
「ええ、まあ」
歯切れが悪い。どこか落ち着かない様子の妹の着物の柄が、病院の真っ白な室内に反発して自棄に眩しい。藍色の落ち着いた見頃に施された刺繍がきらびやかで派手好きの妹にはよく似合っている。
弟の誕生日を思い出したのは、先ほど視界に入った暦のお陰である。偶然見ていなければ忘れていたかもしれない。
「彼奴は何か少しでもしてやらないと直ぐに拗ねるからな」
「ええ」
妹は最近になってよく此処を訪れるようになった。大抵私が一方的に話すばかりで、妹は上の空で返事を返すだけである。
母によく似た青白い顔が下を向いたまま口を噤む。長い睫毛の一本一本が静かに震え、小さな顔を翳らせている。
ほんの少し前までは子供だった妹が今ではもうすっかり成熟している。我が儘でお転婆なあの子はもう居ない。小学校へ入学する御祝いに貰った真っ赤な振り袖を、長兄に見せると言ってきかなかった日の事がまるで昨日の事のように思える。
あの頃は私もまだ――
「望御兄様は」
「おい」
妹の声を遮ったのは次兄であった。時代錯誤な作務衣姿は平素と変わらず見事に外している。
「どうだ調子は」
私達とは少し離れた壁に凭れたまま話す兄を一瞥して妹はまた黙して仕舞った。
「暇で仕方がないよ。皆健康なのは善い事だけど、このままでは廃院ですね」
「そうか」
笑うと何故か妹の恨めしそうな目線を感じて、兄の方だけを注視した。
室内が異様な空気で満たされて酷く居心地が悪い。知らぬ間に兄と妹は仲違いでもしたのだろうか。この二人は二十近くも年が離れているのだから相容れぬ部分もあるだろうが、それでも今まで諍いなどなかった。
「兄さん、丁度望の誕生日祝いを如何するか倫と話していたんですよ。もうあんな年で家の者が祝うと言うのも何だか可笑しな話だけど」
「でも今日がもう十一月四日ですのよ。今更遅いわ。もう止しましょうよ。誕生日なんて、望御兄様がお幾つか解って?」
捲し立て乍ら少し前屈みになった妹は、少しだけ顔が高揚しているように見えた。肩を強張らせて私を見詰めるその姿から、彼女の心情は汲めない。
「解っているさそれくらい。なんだよ急に。さっき訊いた時は肯定した癖に」
「嘘」
やっと聞き取れたような小さな声で妹が言った。
「今から此処に望を呼べば善いだろう。別に何の問題もない」
「景御兄様!」
屹度兄を睨みつけた妹の眼球が綺羅綺羅と涙に覆われて光っているのを私は見逃さなかった。
「倫、如何したんだ。お前、今日は少し変だぞ」
ひゅっと息を飲んで妹は私と対峙した。大きな眼を更に見開いたまま凍り付いている。ほんの一瞬時間が止まったような気がした。
「放っておけ。望の誕生日なら何も用意してないが、今日此処で祝ってやれば善いだろう。俺は端からそのつもりで来たんだ」
「もう呼んでいたんですか」
「否、縁が来るぞ」
「えっ」
私と妹が同時に驚いた瞬間、扉が開けて珍しい客が私達を見渡していた。
「ええと――命か。命、倫。久し振りだね」
柔和に細められた目の下に青黒い隈を携えて長兄は笑っていた。少し草臥れた姿に高級そうな背広が似合わなくて、まるで服に着られている様である。
「いい病院だな。立派なもんだ」
「縁、閉めろ」
兄は開けたままだった扉を閉めて、壁に凭れたまま腕を組んでいる兄に何か囁いた。小さな声だったので私には届かない。
「景から丁度連絡があってね、時間もあったし一寸寄ってみたんだ。お前達が交くらいの頃にはもう私は家に居なかったから、碌に誕生日など祝ってやった事がないからね」
腰掛けている倫の肩に両手を掛けて立ち止まり、兄はまだ笑っていた。元から優しげな顔つきで、腑抜け面だから弁護士など似合わないと次兄はよく馬鹿にした。
兄妹が全員揃って家族の誕生日を祝うのは初めてかもしれない。私達は年の差故に全員揃って同じ屋根の下で暮らした期間はあまりに短い。
「全員で祝ったりなんかしたら彼奴は泣くんじゃないですか」
「あの子は優しい子だからね」
もう二十代も後半に差し掛かろうとしている弟をまだ子供扱いするその言い方に、何故か私までむず痒くなった。
この兄が来てから先ほど迄の張り詰めた空気は幾らか解されている。私達を見詰め乍ら無表情で壁に凭れて立っている兄も、座ったまま自分の膝ばかり見て動かない妹も、そして私もこの兄には何故か敵わない。
「それで、なんと言って望を呼び出すんです?」
「ううん、それを景とも相談していたんだ。何か妙案はないかな」
「縁御兄様!それじゃあ貴方っ」
「倫、あまり苛々するもんじゃない。可愛い顔が台無しだ」
頭を撫でられてまた萎らしくなった妹は、それでもまだ納得がいかないような顔で一度私を見た。
私達弟妹の頭を撫でるのがこの人の癖で、誉められた時も怒られた時も何もなくても兄は私達の頭を撫でてくれた。
「縁」
「ああ、解ってるよ。しかし景、父さんは必要ないと言っていたんだろう?此処の人達も止めてるようじゃないか。私もそんなに急ぐ必要はないと思うよ。なあ、倫」
兄達が互いの顔を見もせず言葉を交わすのをただ呆然と見ているしかなかった。問いかけられた倫は、今ではもう瞬きすらしていなかった。
何かが奇怪しい。何かが違う。
倫はもっとよく笑う利発な娘だった。それが身体を縮こめて黙したまま指一本動かさずに座っている様など私は過去見たことがない。
兄達が揉める様子も、この部屋に充満した淀んだ空気も全て私には解らない。
まるで私の兄妹達が他人と入れ替わって仕舞った様な空恐ろしい、得体のしれない不安が頭をもたげ始めた。
「兄さん、望は」
弟が此処へ加われば幾らか状況が変わるだろうという期待と、私に助け船を出して欲しいという欲求から私は兄達の会話に割って入った。
「そうだなあ。命お前、望が一度家出したのを覚えてるか?」
「ああ、誕生日を逆算するとクリスマスだから絶望したとか言って出ていった時でしょう。結局その日の内に戻って来ましたから家出と言えるのか判りませんけど」
「うん、あの子は思い切りは良いけど臆病だからね。その時望が」
「縁、いい加減に」
「そう、望がねその時公衆電話から私に連絡を寄越したんだ」
次兄の発言を無視して続けるほど強引なこの人を見たのは初めてで、私は戸惑いと膨れ上がる不安に口の中が渇いていく気がした。
「それが如何したんですか」
見詰めあったまま、まったく目が反らせなかった。
「望が何と言ったか解るか?」
兄の口元と瞳は柔和に微笑んでいる筈なのに何故か鳥肌がたった。
「『あんな両親でもクリスマスなんて祝い事に出来た子供だと思えば、寧ろ私は嬉しく思います』とね」
「そうですか。望は貴方にはよく甘えていましたから、屹度それが本心なのでしょう。でもそれが何か」
「『本当はなんだか恥ずかしいだけで』――噫、何だったかな忘れて仕舞った」
「『父や母を非難するつもりはない』でしょう。でもそれは私が貴方に電話した時に」
「可笑しいね。今のは望で、さっきのがお前が私に言っていたことだよ」
「は?」
まるで理解できなかった。
倫は首だけを目一杯曲げて振り返っていたし、壁に凭れたままの兄も驚いたような顔で此方を見ていた。
「いい年してそんな事で行方を眩ませるなんてあまりにも馬鹿らし過ぎて逆に笑えないと言って私に電話してくれたじゃないか」
そんな事を言った覚えはない。
確かに望が家出をした日私は兄に電話をした。しかし私が兄に話した内容は後者で間違いない。
何か貶められる、誘導尋問のような会話はまだ続けられた。
「如何してだろうね」
最早凡て兄のペースである。呼吸も、唾を飲む瞬間も凡て兄に操作されているようだ。
「兄さんが勘違いしているんじゃ」
「お前が望だからじゃないか」
兄の一言が言い終わらない内に倫は椅子から立ち上がり部屋から出ようと走りだしていた。
「いやあ離して!御兄様達はあんまりです。こんな事は幾らしたって無駄だわ。望御兄様を貶めているだけじゃない。これ以上辛い想いをさせるのは止して頂戴!」
「倫!」
次兄に抱き抱えて止められていた妹があまりにも暴れるので、二人は床に転げていた。
「煩い!黙れ!あんた達は鬼だ。離せ!」
「鬼は人の子なんだよ、倫」
丸眼鏡の奥で笑みを湛えていた瞳はもう私達を優しくあやしてはくれなかった。
あんな口調の妹を私は知らない。なんとしても退室しようともがき乍ら泣き叫んで床を引っ掻く彼女の姿はあまりにも悲痛で、直視していられない。
私はただ黙ってこの室内で起きている地獄の様を眺めていた。
――お前が望だからじゃないか
兄の一言が頭の中で何度も何度も反復する。
私が望?私達は双子のように似ていたから兄さんは勘違いしているのだ。私と望は何もかもそっくりで同じだったから――
「望、誕生日おめでとう」
部屋の隅から響いた妹の悲鳴は寝台から転げ落ちた私の悲鳴で掻き消された。







兄を殺して仕舞った。あんなに愛していたのに、殺して仕舞った。
私と兄は何もかもそっくりで同じだったから、私は兄に成れる気がしていた。だから兄も私に成れる。理屈は解らないが私は半ば核心していたのだ。
兄に成りたい。私に成って欲しい。私が兄に成り、兄は私に成る。それでやっと私達は完璧に一つに成れるだろう。
兄はとても勤勉で優秀だった。だから私は兄に成りたいその一心で勉強をした。活動や音楽や芝居、寄席など多趣味な兄にあわせ、兄が好むものは凡て熟した。
兄の総てを識りたかった。そして私の総てを識って欲しかった。だから兄には私の好きな本を沢山与えた。私には本を読む事くらいしか愉しみがない。
しかし私と兄は幾ら外見や声が双子のように似ていようが結局違う一人一人の人間だった。
私達はただの兄弟。何もかも違う。
兄が美しいと云ったものが私には慈しむ事が出来ない。私が兄に与えた本は開かれる事もなく山積みになり劣化していく一方だった。
同じ物を愛でられない。心が通わない。だから私は兄には成れない。兄は私には成れない。
絶望した。それで殺して仕舞ったのかも知れない。
兄は蹲っていた。真っ白であるはずの白衣を深紅に染めて、まるで胎内の赤子を覗き見た様な情景の中で屹度兄は退化していたのだ。
兄は私に成れずに死ぬ。可哀想に。だけどその兄を殺して仕舞ったのは私である。
私達は一つなのだから兄が死んだら私は如何なるのだろう。判らない。だけど私の愛したその人は、微笑んで最期――
「噫、私はお前に成るんだね」
然う云って死んだ。