誕生

昨日手首を切った。何でも死にたい者は手首を切るらしい。頚動脈を切れと言う。
私は兄とは違って解剖学に造詣などないので動脈静脈の区別さえつかぬ。だから兎に角深く切れば良いだろうと思い、左手首を適当に切った。しかしほんの少し切り始めた時点であまりの痛さに耐えきれず悲鳴を上げたため、それを聞いて駆け付けた家の者達によってさっさと止血されそのまま病院へ運ばれて仕舞った。
結局私は死ななかった。死なないどころか傷自体も可成りの軽傷で、治療と云っても不細工な看護婦に包帯を巻かれた程度で特別何かされる事もなく終わった。あまりにも呆気なく、本当に死ぬ気があったのか疑わしくなる程莫迦らしい結果となったので私は秘かに笑った。相当に可笑しかった。

私は将来に何の希望もなく、かと云って絶望している訳でもない。今生きているのだって生まれて仕舞ったからただ何と無く、そのまま生き続けているだけなのである。だから死んでも別に構わないと思った。悲しい事も辛い事もなく、ただ凡庸に生き続けているだけの毎日。それが突然終わる、即ち死んでみると云う事は非日常であるから私にとっては一寸した刺激の様に思えたのだ。
――なんだ、面白そうじゃないか。それなら死んでみようか。
所詮その程度である。だから死ななかった。詰めが甘いのだ。矢張自殺で失敗する者達と云うのは心の何処かでまだ生に執着しているのだろう。本気でやらぬから死ねないのだ。私の様に痛い痛いと無様に泣きわめいて醜態を曝しただけで終わる。

病院で粗末な手当てをされた後は誰に咎められる訳でもなく自宅へ帰り、直ぐに寝た。疲れたのだ。翌日は何時もと同じ時間に起床し部屋を出たところで待ち伏せしていたかの様に小間使いが「今日はお休みなさいませ」などと云ってきたので、高校は欠席させられた。昨日あんな事をしておき乍ら、無頓着で横柄な私は別段学校を休みたいなどとは思っていなかったのだ。左手首が真っ白な包帯でくるぐる巻になっていようが、差して問題ではない。それでも面倒は面倒なので納得したように見せ掛け部屋へ引っ込むと、朝食や替えの包帯を持った小間使いが部屋を行ったり来たりして暫くは暇を潰せた。
朝食で腹が満たされると、昨日死のうとしていた事が嘘のように生を実感した。これからまた死ぬか、それとも生きるかなど今では如何でも良くなって仕舞っている。死んでも良いし、生きてても良い。
それにしても次死ぬなら方法を変えねばならぬだろう。手首を切りつける事があれほどまでに激痛を伴うとは予想外であった。昨日の失敗やこれからの生死について考えていると、扉を叩く重いノックの音で気が逸れた。
「望、入るぞ」
囁くような小さな声が扉越しに届いたが、平素の怠け癖が発動して碌に返事もしなかった。
「いい加減にして呉れ」
部屋に入ってくるなり、学習机の椅子を寝台の脇に置いてそこへ座ると兄は云った。
「昨日が一体何の日だったか。お前、わかっているのか」
控え目に開いた脚の上に両腕を置いて私を注視する兄の目には、見慣れない疲労の色が見えた。大学生と云うのはそんなにも忙しいのだろうか。
「昨日?何かあったのですか?ああ、それより兄さん。頸動脈と云うのは一体何処の血管なのでしょう。どうやら私はそこを切りそびれまして。そこさえきちんと切れば死んでいたらしいのですけど――案外死ぬのも難儀ですね。首吊りの方が」
「望」
言い終わる前に遮った兄の声は静かに震えていた。
「本当にもう止してくれ。こんなのはもう懲り懲りだよ。何故昨日私も景兄さんも家へ帰って来たと思う?――お前が生まれた日だろうが。十一月四日だよ。なあ、おい。忘れたなんて言わないで呉れよ。頼むよ」
捲し立てて次から次へと言葉を吐き出す兄は、見たこともないほど狼狽していて何だか哀れだった。下を向いて動かないのでもしかしたら泣いていたのかも知れない。
私が生まれた日。そう言われてみれば確かにそんな気もする。それなら、私は生まれた日に死のうとしていたのか。
「誕生日――ああ、それで兄さん達は帰ってきてたのですね、私の為に。それは申し訳ない事をしました。景兄さんにも謝らねばなりませんね。兄さん、申し訳あり」
「お前――望、それは本心か。どんな気持ちで謝っているんだ。お前が話す事はみんな感情が籠っていないじゃないか。私達を莫迦にしているのか」
上げた顔全体が青白くまるで病人のようだった。兄は怒っている。そして悲しんでいる。それは全て私のせいなのだろうが、謝ったところでまた怒られて仕舞うから如何したものか悩んだ。
「私が死んだら悲しいですか」
兄は何も云わなかった。
「私は死ぬことがこれっぽっちも怖くないのです。でも昨日は本当に痛かった。あんなに痛いのはもう御免です。ですから二度と手首は切りません。――死ぬことは何故悲しいのでしょう。兄さんが死んだら私は勿論悲しいですけれど、自分が死ぬのは平気なのです」
「何が平気なものか!生きているじゃないか。十七年もこうしてのうのうと生きてきて死ぬ気など端からない癖に、莫迦な妄想はもう止めろ!頭を冷やせ」
激昂した兄は尻のポケットから何か取り出すとそれを私の寝台目掛けて投げつけ部屋を辞して仕舞った。
莫迦な妄想――確かにその通りである。あの痛みは遍く死への畏怖の象徴なのだろう。矢張私も心の何処かで生に執着しているのだ。兄も怒る筈である。
去り際兄が投げた箱は開けずとも見るからに誕生日の御祝いの品で、屹度昨日渡しそびれて仕舞ったのだろう。それを見て今日初めて私は悲しくなった。

兄が部屋を出てから少しして昼食が運ばれてくると、私はそれに手をつけず兄の行方を訊いた。
「命様は先程お帰りになりました。景様は倫様とお庭に出ていらっしゃいます。旦那様と奥様は――」
あまり見慣れぬ若い小間使いが深々と頭を下げながら話すのを最後まで聞かず部屋を出た。
兄は帰って仕舞ったのか。私に呆れたのだろう。もしかしたら見放されたのかもしれない。あの優しい兄があんな風に感情的になる程の事を私はしたのだ。今更自分が起こした失態に気付き、酷く不安になった。

「お兄様」
幼い甲高い声が庭いっぱいに響いて彼女の存在を知らしめた。
「もうお身体は大丈夫ですの?折角のお誕生日を寝て過ごされるなんて、なんだか可哀想」
倫が放り投げた鞠を手持ち無沙汰に弄る次男の兄が屹度私を見ていた。
倫は恐らく何も知らないのだ。あれだけ騒ぎになっても気付かれないのは、この家の広さ故かもしれぬ。父も母も兄も、頑なにこの幼い妹にはわからぬよう手を尽くしたのだろう。
「大丈夫だよ」
声が震えた。無垢で純粋な尊い存在を前にして、私は自分の愚かさを見せつけられているような気がした。
「まあ!それならお祝いをして頂くようお母様に云って参りますわ。ねえ、景お兄様。善いでしょう?命お兄様は帰っていらっしゃるかしら」
大きな目を更に見開いて綺羅綺羅させている妹は、忙しなく私と兄の顔を見比べ乍ら云った。
「命は今頃下宿へ帰る汽車の中だよ。だから今日はもう勘弁しておやり。ほら、母さんの所へ行ってお出で。廊下は走るなよ」
作務衣姿の兄は縁側に腰掛けると妹へ鞠を持たせ、頭を撫でた。そう云えば昔、私もよく兄達に頭を撫でて貰っていたような気がする。もう何年前のことだろう。あの頃はまだ縁兄さんが――
「望、座れ」
自分の横に腰掛けるよう促す兄は私の顔を見て云うでもなく、正面の松や庭石をぼんやり見ていた。
「縁に電話をしたらあいつは大層驚いていたぞ。帰って来るとまで言い出した。あいつが帰って来るとややこしいから止せとは云ったが、あれは相当に焦っていたな」
まるで独り言のように話し出した兄は私の心を読んだかのように長男の兄について語った。あの人にまで知れているのか。
何だか少し後ろめたくなった。
「兄さん、申し訳ありません。謝っても済む事ではありませんが、命兄さんに云われてやっと解った気がするのです。もうあんな事は決してしないと誓います」
「俺に謝るのは筋違いだろう。お前が自殺しようが俺は痛くも痒くもない。まず謝るべきは――解るな?」
「はい」
消え入るような微かな声で答えると、兄は先程の倫の様に私の頭を優しく撫でてくれた。
「どうだ命に叱られた感想は。あいつは怒り出すと口が達者で張り合う気が失せるだろう。まだ手が出る方が解りやすくて善い」
西陽の差す暖かい庭先で頭を撫でられている自分。十七にもなって十も離れている兄に甘えている自分。情けなくて情けなくて、迚じゃないが妹には見られたくないと思った。
「兄さん、もう暫く此処へ居ても良いですか」
最後の方はもうえずいて仕舞って上手く云えなかった。悲しいのか悔しいのか何の涙か知れぬ涙か次々と溢れだし、膝の上で握った拳の上に一滴また一滴と降り続いた。
「誕生日おめでとう」
腕で頭を持っていかれ兄の肩に頸を預けると、笑った兄の顔があまりにも近くて思わず私もつられて失笑して仕舞った。

一日遅れた十七回目の誕生日に私はヒトとしてまた生まれ、今日がその記念すべき誕生日なのだと――そう思った。