後生

突然何が欲しいかと訊かれて、私は何も要らないと答えた。
本当に何も欲しくなかった。
例えば読みたい本なら自分で直接書店へ買い求めに行きたい。
要らない物を渡されても持て余してしまうから勿体無い。
だから何も要らない。
それでも何か一つ、何でも構わないから欲しい物を教えて欲しいと強請まれて愈々逸らかせなくなった私は仕方無く来世と答えた。
来世が欲しい――それは本当だ。常々思ってたいた事ではあるが、真逆他人に寄越せと言えるものではないから言わなかっただけである。
来世は好い。こうして生きている世界ではない、来世が好い。散々失敗して落ちぶれた此の生活ではなく、来世こそは巧くいだろうと考えて仕舞う辺り如何にも愚かで自分らしい。それでも次を約束して欲しいのだ。死んで仕舞っても次の人生が保証されていれば心置き無く逝ける。だから来世が欲しいと答えた。
与太だとか世迷い事を言うなと咎められて至当である。なのに彼女は巫山戯るなと叱るでもなく、ただ悲しそうに眉を顰め乍ら微笑んでいた。
その果実の様な愛らしい顔を見て、何故か心が満たされたような気がしたので思わず私も微笑み返した。
「そんな悲しい事は言わないでください」
彼女らしくない音調が自棄に耳孔を擽り、私は更に頬を弛緩させた。
「悲しい事なんかではありません」
翳った顔をもう一度見て言った。
「来世でまた生きるのです。だから悲しくなんてありません。寧ろ喜ばしい事なのですよ、来世と言うのは」
「来世ではなく今を生きてください。来世なんてそんなものは今必要ありません」
顰めていた筈の眉はいつの間にか緩やかな曲線へと戻り、平素の笑顔を称えていた。
あの悲し気な表情は私の見間違いだったのか――否、私の願望だ。
「今を?」
「ええ。明日でも明後日でもない、来年でも来世でもない今です」
唄う様な軽やかな声が響く。
「今この瞬間を?噫、風浦さん。此れは私の持論ですが〈今〉と云のは存在しないのですよ。一秒、いいえ瞬間毎に其れ等は凡て過去になるのです。今と思った其の時だって、其れはもう過去なのです。そして過去も同様に過ぎて仕舞った時間ですから、其れはもう存在しません。過去には戻れませんからね。ですから、我々には未来しか存在しないのです。まあ人間何時死ぬか判りませんから、未来だって無いと言って仕舞えば無いのでしょうね」
屁理屈だ。新興宗教じゃあるまいし、来世だなんて莫迦らしい。しかしそれでも言いたかった。幾ら肚の内では莫迦らしいと思っても、時間に対して私が持つ見解を彼女に知らしめたかったのだ。
彼女はどんな反応を寄越すだろう。ただ其れが見たかっただけだ。
「じゃあ〈今〉は何時なのですか?未来だって無いと言うなら、来世なんて不確かなものの方が私には信じられません」
「そんな事は――」
如何でも善い。
彼女なら来世は在るとか来世は素晴らしいと賛同して呉れる様な気になっていたが、案外彼女にも真面な思考が備わっているらしい。
狂っているのは私だけか。
睫毛に縁取られた大きな瞳が蛍光灯の光を受けて瑞々しく耀く。矢張此の娘も少女として咲いている。
私は少々その面持ちを羨ましく思う。性別も年齢も違うのだから私に無くて当たり前の其れが、時折無性に欲しくなる。
私もそんな風に咲ってみたい。
私もそんな風に戦いでいたい。
私が彼女なら、彼女の言う通り来世なんて不確かなものには頼らないだろう。
噫、欲しいものなら他にも在ったじゃないか。
「貴女が――」
「私は差し上げられません」
目一杯微笑んだ頬が豊かに膨らんで、血色の良い唇から白い歯を覗かせた。
「未だ何も言っていませんよ」
「先生は私には成れません。先生が私に成ってしまったら、私は如何したら善いのですか?」
「私に成れば善いでしょう」
「来世で?」
「いいえ、今です」
「うふふふふふ」
少女特有の笑い声が部屋中を走る。私を莫迦にして嗤っているのか、それとも肚の底から可笑しくて笑っているのか判らないが揺れる彼女の肩が愛おしかった。
「今?」
「ええ」
「それじゃあ先生は一生私には成れませんね。<今>なんて無いのでしょう?」
「ええ」
一生成れなくて善い。成りたいと感じる羨望は、愛情や欲情による延長線の様なものである。決して女に成りたい訳でも、若く成りたい訳でもない。只の好意だ。
「ああ困りました。本当に欲しいものは無いのですか?何でも善いんですよ。新しい羽織だって善いのに」
「そういった物は自分で買いたいのです。それより、何故そんなに私の欲しい物等訊くのです。また善からぬ事を考えているんじゃあないでしょうね」
眼球に私が映っているのが見えた。眉を寄せて訝しげに彼女を見詰める私の姿だ。本当はもっと優しげに笑い掛けたい。
「何も御存知ない?」
「ええ、全く。隠さないで云って御覧なさい」
小さな顎を指で持ち上げて促すと、うんううん唸って小頸を傾げた。此の娘は時折如何にも態とらしい媚びた態度をとるが、それは決して態とではなくて彼女本来が持つ天稟だと言う事を私は了解している。
「言って善いのか判りません」
「何故」
「だって先生、此の世界はもうこんなに寒くなって仕舞って、でも此れは毎年の事でしょう?秋が終わって寒くなってハロウィンからクリスマスに話題が変わって、毎年それから何がありました?」
するすると煙の様に私から離れた彼女は、制服の短いスカートを翻し両腕を広げ乍ら踊った。
「ダンスが得意なのですね」
「ほら、直ぐに話を逸らす。本当は判っているんでしょう?嫌だなあ。先生は何時もそう」
まるで基督に祈る様に両手を胸の前で組んだ彼女は私を真っ直ぐ見詰めたまま矢張咲っている。
「嫌?」
「はい。正直に言って戴ければ何だって差し上げるのに。怠惰になって言わずに隠して剰え勿体振ったりするから」
言い終わるとまた踊り出した彼女はくるくる回り乍ら元居た場所に落ち着くと、私の着物の端を掴んで上目遣いに言った。
「如何して欲しいの」
真摯な顔付きに私はもういい加減な口をきけない事を悟る。何時も何時も私はこうして彼女に肚の中を抉り出されて仕舞う。もうこうなって仕舞ったら最後、私は彼女の思いのまま吐露するしかない。
袖の裾を握る彼女の右手を私の右手で包み込んだ。
「何時迄もそうして踊って居てください、私の可愛い――」
「噫!またそうやって紛らわす!」
「言い終わる前に遮らないでください」
私の可愛い――何だろう。何を言おうとしたのか判らない。
「風浦さん、それじゃあ私を半分愛してください。其れが私の欲しいものです」
不図頭を過ぎった詩を其の儘告げると、目の前の少女は一瞬瞳孔を揺らした。
「其れは欲しいものじゃなくて願いじゃないですか」
「其れで善いのです。象有る物は要りません」
象有る物は古くなる。古くなれば脆くなって孰れ毀れて仕舞う。物には情が宿るし、そして何より捨てられない。だから象有る物は欲しくない。
「来世は?」
「そんなものは詭弁です。だから今で善いのです。今の此の人生で、今の此の世界で好い――半分愛してください」
――のこりの半分で人生を考えてみたいのです。
「海へ行くのですか」
「何故」
「残りの半分は海を見るのでしょう」
「そうなのですか」
冷たい海水に裸足を浸けて私を呼ぶ彼女が視えた。どちらか一方だけが生き延びて仕舞わぬ様に麻縄で互いの身体を縛り付けている。私達は決して離れる事は出来ない。
塩辛い潮風が髪と一緒に口内へ入ってくる。広い其の海の向こう側は来世に繋がっているような気がした。
「過去も今も未来も来世も愛も海も人生も、みんなみんな私が差し上げます。だって今日は先生の――」
小振りな唇を制した私は唄でも歌いたくなる程に高揚していた。私のものより低い位置にある額に頬擦りすると仄かに彼女が馨る。
「吁嗟、死ぬ事を考えるには今日は相応しくありませんね」
何故なら今日が私が生まれて×年目の冬だからである。