泣虫

――だから止めた方が善いって言ったのに。
私が望に咎められたのは後にも先にもその日だけだった。
生け籬の天辺に倫の手巾か何かが引っ掛かって、それを取ろうとして転んで仕舞ったのだ。
捻ったのか擦りむいたのか、その辺りの記憶は曖昧だが私はその日大層泣いた。幼心に妹の手巾さえ取ってやれない不甲斐ない自分が情けなくて泣いたのかも知れない。
しゃがみこんだ私の横で望は詰まらなそうに小石を蹴り乍らそう言ったのだ。
いつからあの子は誰にでも敬語で話すようになったのだろう。
いつからあの子はお気に入りの毛布を抱かずに寝られるようになったのだろう。
いくら顔が似ていようが、いくら一緒に居ようが、結局私は弟の事など何一つ識らない。同じ様にあの子だって私の事など、屹度私以上に識らないのだ。
なんだかとても悲しくなった。
所詮家族も他人である。他人以外の人間など自分しか存在しない。
弟だけではない。兄も妹も母も父も――そう。父も他人なのだ。
矢張なんだか酷く悲しくなった。こんな歳になってあの日のように声をあげて泣きたくなるのは、屹度そのせいなのだろう。
――命、お前は医者になりなさい。その為につけた大切な名前だよ。
僅かばかり残る記憶の中の父はいつも優しげに微笑んで、いつも同じ事を言った。
父は私だけに優しい。
今思えば酷く傲慢な考えだけれど、幼い時分私はそう思って疑わなかった。
父が好きだった。
同じ目の高さで話し掛けてくれるその優しさも、頭を撫でる大きな掌の温かさも、父が与えてくれた親子として当たり前の愛情を私は真っ当に受け止める事が出来なかった。まったく揺るぐ事のない自惚れは、拙い私をずっと護ってくれた。
しかし自分の歪みに気付いた時、私を襲った畏怖そして嫌厭は計り知れない。
十三の時だった。
少しばかり遅い精通が訪れて、躰と共に私は屹度大人になったのだろう。自分が何れ程屈折した厭らしい子供だったのかを思い知り、そして信じて止まなかった父の愛――私が模造した偽物の愛を無くし、子供隠された鬼子母神の如く私は酷く狼狽した。
それから暫く父とは真面に口をきかなかった。申し訳ないような、それでいて後ろめたかったので目も碌に合わせられずにいた。周りの人間から見れば只の反抗期も、それは遍く自分への反抗だったのだ。



「だからと言って今更謝りに行く事はないじゃないですか」
「ははっ!酔狂だろう?」
弛緩しきった顔中の筋肉を総動員して笑って見せると、なんだか凡てが馬鹿らしくなって心の底から笑えた。
何と無く訪れた実家で何と無く父を呼び出して何と無く私は幼い頃の妄執を、やけに機嫌の良い父に話して聞かせた。
何かを察したかの様に母は出掛けて仕舞うし、家には私と父とあまり顔馴染みのない使用人が数人居るだけで、迚も閑暇としていた。
「屹度最初から解ってたんだなあ、あの人は。流石にあんなに高笑されるとこっちも如何でも善くなって仕舞ってさ」
「油断ならないですよ、あの人は」
そう。私達の父は面白い事が大好きなのだ。
父はもう何年も前から私が医者になることよりも、この馬鹿正直で無駄な告白の方に嘱望していたのだろう。
「墓場まで持って逝くべきものとそうでないものの区別が兄さんには出来ていないんですよ」
「なんだよ偉そうに。この死にたがり」
一瞬眉をひそめたその顔がまるで泣き出しそうだったので、思わず私も父の様に声をあげて笑って仕舞った。これではまるであの日とは立場が逆である。
――泣き虫。
未だ声変わりをする前の弟の声が、何処か遠くから聞こえたような気がした。