衝動

デストルドーという言葉についてどれほど考えたか知れない。タナトスとも言うのだろうが、フロイト自身はこの単語を使わなかったと聞く。
しかしそんなことは如何でも善い。
後世の人間達をリビドーだとか、たかが英字六文字に縛りつけ苦しめたあの髭面を恨めしくも思う。だがリビドーと対局にあるデストルドーに私は少なくとも愛着がある。この死への衝動というやつは、もうかれこれ二十年ほど前から私の頭の五割以上を占拠しているのだ。
死の欲動との闘いが生という一説に私は大いに共感している。生まれながらにして死体だとか洒落た詩よりは現実味があるし、どんな人間でも必ず死に対して興味強いては欲動がある筈である。だから世間には死を軽々しく語る無責任な言葉や出来事が蔓延っているのだ。
しかしだからと言って私は自傷行為は好まないし、本気で死のうとしたことはない。気軽に死にたいと口にすることは、私にとって頭の中を整理する便利な言葉ではあるが、何も本気ではない。死に対して抱く欲、興味、畏怖、反発。様々な思索で絡まった頭をリセットする魔法の言葉だ。そもそも私は人一倍生に執着がある。死にたくない。
年老いて身体が動かず頭が耄碌してまでも生きたくはないが、それでも私は死にたくない。矛盾している。それは偏に死が結局何なのか解らないからであり、生きている限り死を理解することは不可能である。また死んでも尚死を理解することは出来ない。死ねば人はそれで終りだ。
「輪廻転生はない?」
「ないでしょう」
人が死体に成った瞬間、それはもう人ではなく死体と言う物なのだ。だから死ねば終わる。その後生まれ変わるなど反論するのも莫迦らしい。
「じゃあ俺と先生は二度と会えませんね。嬉しいです」
「は?」
思春期特有の反抗的な口のきき方で、木野国也が私を睨む。その怨めしそうな眼が何を訴えているのか私はまるで判らない。
「あんたが誑かしてるからだ」
面談の順が最後だからといって無駄話が過ぎる。この子にしたら私とこう対峙して話す機会をずっと窺っていたのだろうが、いい迷惑である。
「ああ、久藤君のことですか」
「ええ、久藤君のことですよ」
皮肉たっぷりに丁寧に君までつけて級友を呼ぶ彼の真意を本当は汲んでいる癖に知らぬふりをする。意地が悪い。
「そうですか。ふうん。じゃあ君、もう会えないなんて近々死ぬ予定でもあるんですか?生憎私は暫く死ぬ気はないですよ」
「久藤を殺して自分も死にます」
「ほう」
まるで三問芝居のような口先の私に対し、彼は更に軽薄な態度で挑んでくる。私は今、少しだけ愉しい。
「どうやって殺して欲しいですか?」
「久藤君を?さあ。そもそも殺すなんて物騒な話、飛躍しすぎです。君が一人で勝手に自殺するなら兎も角、そんなことを堂々と宣言されたら私だってはいそうですかとは言えませんよ。私から久藤君にこのことを言ってしまう可能性だってあるでしょう。君、友人が居なくなりますよ」
「久藤を殺されて困りますか?別にいいでしょ。あんたにはあの医者がいるじゃないですか、同じ顔の。それに久藤があんたから聞かされて、木野とは絶交だとか言う魂じゃないことくらい判るだろ。彼奴はあんたみたいに腰抜けでも間抜けでもないんだよ」
「別に私が間抜けだろうと何でも構いませんが、君は久藤君を随分買い被っているんですね。ああ、それとも崇拝かな?彼はとっても優しい子ですから、確かにそんなことは言わないでしょね。でも彼だって普通の人間です。自分に殺意を抱いていると人物と仲良くしたいなんて然う然う思いませんよ。彼はあれでいて結構弱いんです。まあ君には知る由もないでしょうが」
「あんたと付き合い出して彼奴は奇怪しくなった」
「とんだ言い掛かりですね。彼は別に変わってなんかいないでしょう。色眼鏡ですよ、君の。君は久藤君が思い通りにならなくて辛いから死にたいんですね?でも一人で死ぬのは厭だ。だから久藤君を殺したい。在り来たり過ぎます」
「俺達が死んだら心置き無く兄貴とくっつけるだろ」
「君が生きていようが死のうが私は好きにします。まあ最初こそ殺したい理由はあったんでしょうが、悶々と考えているうちに見失ってしまったんでしょう。そんなことで久藤君を亡くすのは忍びないです。よく思い出しなさい。君は何で久藤君を」
「あんたのせいだろ」
「私が何」
「思い通りにならないなら殺したい。久藤が死んだら生きていても仕方無いから死にたい。死ねば楽だ。百年後に生まれ変わるなんて言った作家がいたけど、あんたは輪廻転生はないって言うし、俺もそう思う。だから死ねば一生こんなことにはならないんだよ。あんたの面を見ることもない。死んじまえば判んないんだ。死んだら可哀想とか辛かっただろうとか怖いとか、そんなのは生きてる奴等の御託だ。死ねば無いんだろ。無いんだよ。だから殺す。だから死ぬ。悪いか!」
「それが君のデストルドー、否リビドーですか」
「どっちだって良いんだよそんなことは。俺にどうやって死んで欲しい」
「知りませんよ、そんなこと。飛び込みでもして駅員に鮪の刺身とか散々悪態吐かれれば佳いじゃないですか。派手で佳い。そんなことより、進路希望調査明日ちゃんと提出して下さいよ。私はもう行きますから。君の面談を始めてもう一時間も経ってしまった。木野君、友人は大切にしなさい。久藤君は私なら兎も角、君に殺される謂れはないでしょう」
それから私は無言の教室を後にして、夕陽で染まる廊下を渡って行った。それが正に最後だった。木野国也は己の心意に忠実になったらしい。流石、若いので思い込んだら一筋である。肉片に成っては奇妙な服も着られまい。
「久藤君、無事で何よりです」
「先生、僕の所為で」
「いいえ、君のせいなものですか。木野君は結局デストルドーだけに従ったようですね。」
「え?」
元々あの生徒には他人を傷付けるだけの非道的な要素が足りぬ。人殺しが出来る訳がない。結局自分が死にたかっただけなのだろう。自殺願望と殺人への好奇心。てんでつまらない。
「死の欲動との闘いが生」
「ええ。そう言えば君にも話した事がありましたね」
こんなに粗末な展開に巻き込まれて尚、身近な人物の死を目の前にして尚私の死に対する考えは変わらない。ただ一寸厄介な面倒事が増えただけである。今頃テレビ、新聞と殺人未遂犯の少年飛び込み自殺とか賑わっているだろう。私も孰れ生活しにくくなる。犯罪者の担任で、彼に余計な知識を植え付けたのは私なのだ。
「死にたい」
この日ばかりは魔法の言葉も効力を失ってしまったようである。彼が、根も葉もない遺書を遺していないことを願うばかりである。