罪魁

瀕死の兄の顔が剰りに安らかなものだから、主治医は最早手を挙げていたようだった。
昏睡状態と言うのだろうか。ただ気持ち良さそうに寝ているだけにしか見えぬ兄の口元は、緩やかに微笑んでいるようにも見えた。
「倫、こいつの顔を見てみろ。生きる意志の無い者を助けるなんてとんだ無駄骨じゃないか。どうせ意識を取り戻したって後から責められるのは私なんだから」
「それは幾ら何でもあんまりです」
そこで死にかけている兄より目の前の兄の方が重病人のようだ。目頭から青黒い隈が降りていて如何にも医者の不養生である。
「お兄様、少し寝てらして。酷い顔色だわ」
「ああ」
私の為に椅子を運んできた看護師の気の毒そうな顔が妙に疎ましく思えた。
兄が死んだら私は悲しいのだろうか。判らない。今まで散々詰ってきた癖にいざ死と言うものを目前にすると、どうしたものか逡巡してしまう。
「兄さん、本当は死ぬつもりなんて無かったのでしょう?」
そうだと言って欲しい。



時田に車を出させ私は拘置所へ向かっていた。あの男を保釈させる。そんな雀の涙程の金なら糸色が幾らでも出そう。父は矢張何も言わなかった。あの母でさえ少々取り乱していたと言うのに。
それでもあの男を糸色で引き取る手立てまで知らぬ間に済ましていた父の心境など判らない。仕事への影響を懸念しているのか、兄を想っての事なのか私には到底理解出来ない。父を訝しく思っている訳ではない。絶縁状態の兄を呼び出そうとする母を止めた時も、私に拘置所へ行けと言った時も、父の顔は仮面の様にそのままだった。
「あの子はきっと何もしちゃいないよ。でも無罪放免と言う訳にもいかないだろうね」
腑抜けた瀕死の患者の顔を恨めしそうに眺めながら、主治医は欠伸混じりにそう言った。
久藤准。彼と兄の関係、教師とそして生徒。それは今も変わらないだろう。あの感情の汲めない彼の眼は一体何を見たのだろう。
時田が何か言っていたようだったけれど、私の耳には何も届かなかった。





「お顔、見て差し上げて」
亡き者に対してきく口のようだったが訂正しても仕方がないので黙って仕切りを開けた。
鼻から続く管、得体の知れぬ電子画面が弾き出す数値。それぞれがこの兄に何をもたらし助けているのか素人の私には判らない。
「こんな表情が出来るなんて、きちんと生きていらっしゃる時に見せて頂きたかったわ。ねえ、そう思わなくて?――久藤」
寝台の脇に立つ私達に兄は気付いているのだろうか。矢張間近で見ても久藤の眼から感情は汲めなかった。まるで父の眼と同じだ。
「これから一体どうするつもり?お父様はああ仰有っているけど」
「お金は返すよ。僕の家だって黙って見てる訳じゃない」
「そんなことを訊いているんじゃありません」
久藤の家がそれなりに財をなしていることは知っている。そこに糸色が口を挟む事に何か意味があるとしても、そんな事は私にも兄にも、久藤自身にも関係がないだろう。
「あなた一体何を見たの」
「全部署で話した通りだよ――ああ。本当に善い顔で寝てるね」
昼の間私が座っていた椅子を引いて腰掛けると久藤は兄に向けて微笑んだ。
久藤を問い質して如何するつもりなのか自分の詰問に責任が持てない。兄が何故こんな状態に陥ったのか知りたい訳じゃあるまいし、知ったところで何の意味もない。
上部だけでも知りたければ、雑誌だとか新聞を好きなだけ漁ればいい。あちらは嘸や盛り上がっている事だろう。
「御免ね」
薄暗い病室で私に向かって謝罪する久藤の目が兄の脈拍を数える電子画面を反射して、妖しく光っている。何を謝るのだろう。
「署でも同じ事を言ったけど――何故止めなかったのか僕自身判らないんだ。罪に問われて当然だよ。助けなかったんだから」
真逆本当に死のうとするとは思わなかった。それは私も久藤も、皆同じだ。人一倍生に執着し縋っていたあの兄が自ら命を絶つなど思いもよらない。
「高を括ってたのね」
「そうかもしれない」
死んでしまうのだろうか。
例えば鼻から続いている管や、骨張った腕から覗く細いチューブを引っ張って外してしまったなら――呆気ない。人はそんなにも簡単に死の危険に晒されるのか。もう兄と会話する事さえ叶わないかもしれない。
急に悲しくなった。
「御免」
私はどんな顔をしていたのだろう。今にも泣き出しそうな眼が辛抱強く微笑んで尚も謝罪してくる。居心地は悪くない。私も久藤もきっと同じなのだ。
「久藤、もう謝らないで頂戴。そんな、もう助からないみたいな言い方嫌よ」
歩み寄って覗いた兄の顔は矢張不謹慎な程穏やかで心が抉られるようだった。
長く続いた沈黙をノックの音が破り、見知らぬ老紳士が開口一番謝罪を述べると早々に久藤を連れて帰ってしまった。
部屋を覗きに入った時田の顔がやけに衰えて見えて、言い知れぬ物悲しさを感じた。
「時田、お兄様はまだ医院内に?」
「命様は望様が運ばれて参りましてから医院内を一歩も出てらっしゃいません。今は景様と交お坊ちゃんもご一緒です」
「そう」
もう何日もこうしていれば、あんなに顔色が悪くなったって当然である。あの人達もそれほど狼狽しているのだ。母は結局縁兄様に連絡をとったのだろうか。私達は今まで散々いいように遇ってきた家族の死を目前に揺らいでいる。
連れて帰られた久藤はどうなるだろう。あんな使用人しか寄越さぬような薄情な家に、私達のような確かな繋がりがあるとは到底思えない。父が身元の引き取りを私に命じた理由が少しだけ解って切なくなった。
「久藤――久藤を呼び戻しなさい。まだ間に合うでしょう。早く!」
独りは耐え難い。でもこの部屋を出ることも出来ない臆病な私は兄や甥を呼ぶ訳でもなく、よく知りもしない男子生徒を所望した。何も話さなくたっていい。兄の、私の傍に居て、そして私の衝動を止めて欲しい。

今にも消えようと揺らめくか細い命の灯火を、どうせなら私が吹き消してやりたい――ずっとそう思っていたのだ。