傷痍

尖端に赤い炎が見え隠れしている。
何の変哲もない紙煙草の擡げている灰が今にも落ちてしまいそうで、僕はずっとそれを気にしている。
副流煙と言うのが身体に悪いらしい。その肉の足らない唇から吐き出す煙によって僕が肺を患ったなら、それも好い。
「落ちますよ」
ほらと巫山戯て差し出した右手を無視して彼は何の躊躇いもなく胸で火を揉み消した。白魚の様な指から吸い殻を離すと、色素の薄い唇の角を上げて――ああ。微笑んでいる。
「身体、洗ってきなさい」
拒絶する様に押し返された肩に氷の感触を感じて背筋が粟立った。好い。その冷たさが好い。
従順に身体を洗いに風呂場へ行って、この浴室を前にする度思う。この家の石鹸、この家の入浴剤。そして洗剤や柔軟剤の類い。そう言った物から彼の香りを自分に摺り込んでいる。その香りを纏って部屋へ戻ると、寝台の中心を陣取った彼が僕を一瞥してつまらなそうに眼鏡を外した。
「――先生」
眼鏡を通さずに見る彼の目は無機質で冷たい硝子玉の様に生気が無く、せぐるしい。まるで剥製の目だ。きっと眼鏡がオブラートの役割を果たしている。優しく微笑んだり片眉を吊り上げる得意の表情も、眼鏡を外してしまった今となっては全て無効だ。
凍った表情をぴくりともせず、使われる事のなくなった灰皿を壁に投げ付けた。壁を背にして突っ立ったまま感情を放棄した僕を強引に引き寄せると、彼は言った。
「久藤君、今度私を先生なんて呼んでみろ。そんな火傷じゃ済まさないよ」
怒ってなどいない。僕は知っている。
骨に色素のない皮膚が貼り付いただけの脆弱そうな身体が、照明の温かな光を拒む。羽化したばかりの虫のような生白い身体がありとあらゆるものを拒絶し、自ら発光している。
一方僕の身体と言えば転々と小さな火傷の痕、無数の引っ掻き傷。まっさらだった身体は嘘のように赤かったり青かったり紫である。
「私に嫌がらせでもしているつもりか?望はね――君の、その顔がお気に入りなんだよ」
だから見えるところは傷一つ無い。
それでも余所では決して脱げぬような身体に仕上げられた。凛と咲いながら何度甚振られただろう。割れた灰皿の破片を一つ拾い上げて薄橙の光に翳しながら、また彼は唇だけで咲う。
眼鏡と言う虚栄を外してしまえば目だけはいつも哀咽の色を隠しもしない。
僕も彼も、ずっと咽ている。
『ノゾム』
尖って光る硝子の破片が真っ赤なインクで僕の胸に文字を刻む。外国の映画で薬物中毒の男女がこんな事をしていた。
僕に彼を抑制する術は、無い。
「彼奴は小さい頃よく転んでね。その度にちっちゃな傷を作って泣きながら縋りついてきたものだよ。だから痛いの痛いの飛んでけってお呪いを何度も唱えてさ。だから私は医者になったのかな――久藤君、痛いかい?」
時折彼の昔話で心を抉られる。僕に兄弟はいない。だから兄の弟へ対する慈しみや弟が兄を頼る気持ちも、兄弟間だけに発生する絆だとか愛情と言うものは理解し得ない。羨ましいと思う。
他愛もない平和な昔話が酷く悲しい過去のように聞こえるのは僕の卑懐さがいけないのだ。彼等は何の問題もないただの家族なのだから。
ノゾム――担任の名。
「命さん、先生は僕を久藤君と呼ぶんです」
「そう」
辿々しく名を呼ぶと一瞬だけ本当に咲った気がした。あくまで僕の視感でだけれど。
カルテに何か書き込むような気軽さで彼は僕の身体に字を刻んでいる。鼻歌を歌い出しそうでもあり、情操など疾うに無くしてしまったようでもある。黒い睫毛から覗く硝子玉がより一層悲愴に新しい傷をなぞっているような気がした。
『ノゾム』
黒い眼球にその字が逆さに映る。
二個目の戒めが少量の血を流しながら蚯蚓腫れになっていく。
痛いような痒いようなこの感覚には慣れない。生きている限り身体は絶対に順応しないので痛い事は変わらない。痛くなくなってしまったら最後、それはもう狂っている。
「私に期待などしないでくれ」
していない。
「望がまた君の話をしていたよ。委員会の集まりを一度すっぽかしたそうじゃないか。意外だ意外だと煩かったよ。彼奴、同じことを何回も言うだろう?」
「ええ」
知らない。彼について僕は然程詳しくはない。ただ教師としか認識されぬ人間に対して、執拗な観察は無用だ。
「で、何故行かなかった?」
「貴方が呼んだからですよ。日付で気付いたんでしょう?敢えて訊くなんて態とらしいじゃないですか。厭な人だ。放課後は駄目だと再三言っていたのに、貴方が珍しく電話なんて寄越すから」
「ふん。君は彼奴と一緒で馬鹿だよ――准君」
期待するなと言ったわりに僕の本懐をすんなり受け入れてくれた彼は、もしかしたら今日機嫌が良いのかもしれない。
それでも矢張硝子玉の暗泣とした面影が拭えない。泣きたいのなら泣けと言えば善い。だが違う。これは違う。僕等は心のずっと奥、身体の何処かに隠したほんの一部で何をそれ程までに悲嘆しているのだろう。
僕の身体を傷付ける事に意味があるならば、何故彼はそれに満足しない?こんな倒錯的な行為はいつまで続く?
彼が僕の顔を傷物にしたら、きっとそれが最後だろう。
「望に君なんか呉れてやるものか」
赤く腫れ上がったノゾムの字を猫の様に舐めて、唇だけはまた咲ったので僕も微笑み返してやった。
「僕は、貴方しかいりません」
傷痍未だ癒えず、僕らはいつまでも泣いている。