陋劣

排気ガスを思いッ切り吸った。
当然咳き込んで涙目になる。
あーこうして地球の自然は破壊されていくんだなーと、自分を母なる大地とやらに見立てて憂いてみた。
でも自分が生きている内に地球が滅びる事は絶対ない。持論だ。地球がそのうち駄目になるとしたって自分が死んだ後なら氷河期になろうが、巨大な彗星が激突しようがどうでもいい。
まだこの歳でこの世に残す愛する者の存在なんて大それたものはないし、次の世代に健康な地球を残したいとか偽善振ったゲロみたいな事は微塵も思わない。正直なんだ。
正直とは善い意味で使われる言葉で、実際そういうつもりで使った。
「うわあ、酷い」
――猫の死骸
蝿が群がって飛び回っている真下で、汚れて黄ばんだ白猫が横たわっていた。生きていた時は可愛かったかもしれない。鼻が潰れて豚みたいな野良猫ちゃん。
ほんのちょっと躊躇って立ち止まったけど結局知らん振りして通り過ぎた。こんなアスファルトの上では埋めてやることも、アイスの棒で粗末な墓標を立ててやる事も出来ない。
何も出来ないなら端から手は出さないに限る。無力なくせに介入するから余計ないざこざに巻き込まれる。
だからいくら大気が汚染されようが、目の前で何が死んでようが自分に関係ないなら目を瞑って全部やり過ごせばいい。中々出来ないようで俺の性格上、実はかなり簡単。それが上手な生き方だと思う。それも持論。
実際合ってるんだから、卑屈とか卑怯とか何を言われても構わない。嫌われたらそこまで。人間関係なんて、人間がこれだけいればいくらでも使い捨て出来る。
そうして生きてきた。


翌日、猫は消えていた。誰かが処分したか、それとも埋めてくれたのかな。もしかしたら鴉が食ったかも。鴉に食われたなら道が血だらけじゃなくてよかった。そんなトラウマになりそうなグロテスクな物は見たくない。
退屈な授業をやっと終えて(半分は寝ていた)昼食をいつものように食おうと思ったのに青山の様子がおかしい。柄にもなくアンニュイだ。肩を叩いたら魂が抜けてしまいそうなほど覇気が無い。身体の調子でも悪いのかもしれないし、何か悩み事かもしれない。お前なんかがそんなしおらしい態度をしたって鬱陶しいだけだ。
何かあった?どうした?と訊いてやる気なんて毛頭ないとブッ叩いてやりたくなる。感傷ぶってる奴は視界に入らなくても気配だけでイライラする。口をきいて憂鬱が感染したら嫌だから独りで勝手にウジウジしてたらいい。
シカトを決め込み無言のまま箸を手にとった瞬間、青山の口がゆっくり開いた。全てが鈍い。
「昨日猫が死んでたんだ」
「――ヘェ、そう」
それは可哀想にねと抑揚なく云うと心此処に在らず、力無くウンとだけ返ってきた。
どうせあの猫だ。どんなに物騒な世の中でも、ましてや偶然でも一日にそう何匹も死なれては日本が異臭と蝿の国になってしまう。
「道路の脇に倒れててさ、でもそのまんまにしとくのも可哀想だから埋めてやって――ああ、食事中にゴメン」
「え!お前、あんな所からアレ運んだの?うわッ」
あの道から土のあるような広い場所、公園だとかに辿り着くには相当距離がある。その間あんな腐りかけみたいな死骸を運んだのか。コイツがそんなに思い遣りに長けた奴だったとはちょっとビックリした。猫の死骸を埋めてやる事が思い遣りに繋がるかどうかは知らない。
「お前知ってたの?」
呆れたと言わんばかりの形相でキッと睨み付けてくる視線には驚きや軽蔑が予想以上に含まれている。
そうだ。こうして嫌われていく。
会話は途切れた。無言のまま繰り広げられる食卓は虚しく、廊下の向こうから聞こえてくるフザケた奇声や笑い声が自分に向けられているみたいに感じた。
「青山」
フレームの色が嘘くさいメガネの奥、伏せられた目で機嫌を窺う。睫毛が意外と長いとか、男の癖に肌が綺麗とか余計な事ばかり考えた。
――俺を嫌いになったでしょ。
ほんとは友達としてわりと気に入っていたのに。呆気ないな。切ないなんて思わないけど少し悔しい。
「青山」
猫の死骸、誘ってくれたら一緒に埋めたのに。昨日一緒に帰れば良かったね。悲しい想いを半分こしたらもっと仲良くなれるかも。
猫の死骸、俺が埋めれば良かったね。そしたらお前は何も知らずに済んで、悲しい想いなんかしなかったのに。
――ウソ。ぜんぶウソだよ。
「青山」
「しつこいなぁ」
違う。ちょっと寂しい。
地球が滅びるのも、猫が死ぬのも、青山に嫌われるのも全部嫌だ。
辛い。悲しい。切ない。
痛い。寂しい。苦しい。
感情の振り幅が大きくなるのが怖い。嫌嫌嫌。泣きたいかも。
「青山」
机に広げた飯を押し退けて突ッ伏すと青山がいなくなった。ほんとは目の前にいるのに、これじゃあ真っ暗だ。
机、臭い。
「青山、嫌いにならないでね」
今日は一緒に帰って、猫のお参りに行こう。墓標代わりにアイスの棒が必要なら俺の奢りだから好きなのを選びなよ。
ツンツン腕を突ッつかれたから組んだ腕の間から目だけ覗かせると青山が無表情で無感情に言った。
「お前なんか大ッ嫌いだ」
言い出しは吐き捨てるみたいだったのに途中で完全に笑ってしまっている。嫌いになんかなってないよって青山の手が俺の頭をポンポン叩く。
「恥ずかしい奴だなぁ」
感傷にひたってたのは、俺だ。
青山は許してくれる以前に怒ってもいなくて、なんだそれなら俺の性格には被害妄想を付け加えなきゃならない。
お前ろくな性格してないな。
「青山、ゴメン」
「ウン」
「青山、アリガト」
「ウン」
「青山、」
「もういーよ!わかったから!」
机に突ッ伏したまま鼻を垂らしてグズグズ言った。小学生じゃあるまいし格好悪い。死にたがりの担任に首吊りロープを借りたくなる。
「芳賀ぁ泣くなー」
朝せっかく整えた髪が青山の手で好き放題荒らされる。でもいいよ。今日は許してあげる。
俺は今猛烈に改心したのである。