偽物

この宿直室とやらに足繁く通うようになってどのくらいたったか知らないが、私は見事に馴染んだと思う。同じ空間に居ながらそれぞれが自分の思うまま好き勝手行動するので、最初こそ頭がイカれてしまうと思ったが慣れは怖いと言うか、どうも私は人間の適応能力を嘗めていたらしい。
「お兄さん病院は」
「病院っていうのはね、大抵水曜とか木曜は休みなんだよ。君はあまり外に出ないからそう言うことは知らないか」
「どうせ開いてたって誰も来ないもんな」
この口の悪い甥に説教する気は疾うに失せた。しかし良く良く考えてみれば可愛いのだ。刺々しい言葉遣いをしようが根本はすれていないから毒がない。それに元々子供は嫌いじゃない。倫は随分立派な商才を発揮してすっかり成長してしまったし、兄として正直寂しかったのだ。勿論望にそんなことは端から期待していない。何よりも年が近い。
「ところで望は?」
「教員会議って校内放送してたぞ」
「あいつはそういうのにちゃんと参加してるのか?意外だな」
空になった湯飲みを玩びながら肘をついたまま話す自分が、まるで望のそれみたいで失笑してしまった。
「ちょっと、お兄さん一人で笑わないでよ」
「君みたいな生徒がいるから望は会議で問題にされるんじゃないか?ふふ、可哀想にね」
「小森の姉ちゃんに失礼だろっ!」
「はいはい、悪かったよ」
空だった湯飲みを再び満たしながら三人して笑っていると、自分がちょっとこの擬似家族に味を占めてしまっている気がして恐ろしくなった。何という悪趣味!
「さて。望はもう少しかかりそうだし、私はそろそろお暇するよ。交、望が帰って来る前にその羊羮全部食べてしまいなさい。私を待たせた制裁だな。お陰で用事を忘れてしまった」
「せいさい?何だそれ」
私が土産に持ってきた羊羮を遠慮なく次々口に運ぶ交を見て微笑んだ小森さんのまだあどけなさが残る頬を少し愛しく感じた。黒目がちで瑞々しい大きな目がそのまま私へ移る。
「夕飯は?」
「いや、今日はいいよ。その代わり今度私の好物を作って欲しいな」
「お兄さんの好物なんて知らないよ」
「そのうち教えてあげるよ――ああ!小森さん、交にお茶を淹れてやってくれ。喉につまらす」
「あ、ああうん。交くんゆっくり食べなよ――じゃあ、またね」
私のこんな一面は恥ずかしくてうちの看護婦達にはとてもじゃないが見せられない。私も遂にこちら側の仲間入りか。矢っ張私にも糸色の変人の血が通っている――とか何とも下らない思索に耽ていると廊下で当の本人に鉢合わせてしまった。
「兄さん、来ていたんですか」
「うん。お前に用があったんだけどね、待ってる間に忘れてしまったから今日はもう帰るよ。まあ大した用じゃなかったのかな」
「そうですか」
「すまないね。ああ望、少し急げば羊羮まだ間に合うぞ」
「は?羊羮って」
「交の歯形付きかな。じゃあ、会議お疲れ様」
「はい――」
何か言いたそうな歯切れの悪さで頭を少し下げた弟の後ろで常月さんが控え目に手を振った。日常とは甚だしいほど非常識である。