処女 処女が経血で字を綴る。 真っ赤なインクのペンで綴られた奇怪な手紙は今朝下駄箱で私を待ち構えていた。 『あなたに私の初めてをあげます。放課後、教室で。』 なんと巫山戯た話だろうと一瞬憤怒した以外は少々浮かれてしまっている。男として、処女とは一寸特別なのだ。 一体誰の字だろうかと考えたが思い付かぬ。これでも教師だから生徒の字くらい特徴は掴んでいるのだが、こんな字を書く人物に心当たりはない。悪戯かも知れない。こんな手紙は忘れて仕舞おう。赤ペンで綴った恋文など悪趣味極まりない。 手紙の指定していた放課後になった頃には私はもうすっかりそんな事は忘れていた。 ――出席簿が無い。 確かに教室からは持ち出したような気がするのだが。元から教室に忘れていたのだろうか。確認しに行こうと教務室を出ると廊下で生徒とすれ違った。 「先生」 「ああ、風浦さん。出席簿を教室に忘れてしまいまして、取りに行こうと」 「忘れた?真逆!だって出席簿は――ああ。いいえ、出席簿は確かに教室には有りますよ」 彼女にしては歯切れが悪く少し不安になった。 「そうですか。これからお帰りですか?」 「ええ」 「気を付けて」 「はい。先生もお気を付けて。左様なら」 「左様なら」 どうも不信感を拭えないまま手を振る彼女に答えたが、私も気を付けろとはどう云う意味だろう。否、彼女のことだ。意味など考えるだけ無駄か。 思索を放棄して教室に向かうまでに数人の生徒と擦れ違い、その度に左様ならと口にするそれが全く事務的で虚しい気分になった。感情も糞もない左様ならは一寸寂しい。 自分が担当する教室の前に立ち引き戸に手を掛けた瞬間、風浦可符香の〈教室には有った〉と云うあの言葉を思い出して頭が靄靄とした。あれは何だったのだろう。 ええい儘よ。半ば自棄になり乍勢いよく戸を引くと教室には勿論誰も居なかった――様に見えただけだった。少し後ろ側の席に少女が独り、ぽつんと所在無さげに座っていた。 「今晩は、先生」 「小節さん、あなた」 「意外でした?」 そこで漸く私は今朝の奇怪な手紙を思い出した。手紙は後で捨てようと懐に入れた儘だった。 「出席簿を探しに来たんでしょう?私が持ってるの」 ゆったりと机から出席簿を出した彼女の心意は解らない。 〈教室には有る〉その意味を何と無く理解はした。それでは何故彼女が持って居なければならないのだ。 「こうでもしないと手紙の事なんて忘れるか、態と来ないかのどっちかだと思って。御免なさい」 まだ私にはあの手紙と彼女を結び付けられる程の実感が無かった。先ず字が違う。 「あの手紙はあなたが」 「いいえ」 片目だけ露出した不自然な顔が真っ直ぐ私を見詰めてくるので居心地が悪い。 外の色が変わり始めた。 「じゃあ誰が」 「私です」 埒が明かない。誰が書いたかさえはっきりしないとはどう云う事だ。彼女にまで不可解な言動をされると私の許容範囲は堪えきれず崩壊する。 「小節さん。巫山戯ないで正直に云ってください。叱りはしませんよ。これでは全く意味が解らない」 薄く微笑んだ口元を視界の端で捉えた。出席簿を無理矢理取り返してさっさと帰りたい。 「先生、苛苛しないで」 「苛苛など――していません。出席簿を私にください。早く教務室に帰らなければ」 嘘だ。別に急いでなどいない。 「あの手紙は千里ちゃんの――」 私の知る木津千里の字はあんなに丸みを帯びてなどいない。態々赤を選ぶセンスは納得出来るが。 「あの字は木津さんの字ではありませんでしたよ。小節さん、あなた何を企んで」 「企んでなどいません!あれは先週千里ちゃんが先生の下駄箱へ入れたんです。それを私偶々見て――先生、私を信じて」 信じられる訳が無い。 木津千里が私の下駄箱へ忍ばせた手紙を彼女はタイミングを見計らって取ったのだと云う。出席簿の様に。優秀なスリである。 手紙を開け読んでみると字が木津千里の物でないから驚いたが、そこで或事を思い付いたのだと云う。 「きっと千里ちゃんも私と同じ事をしたんです。この手紙は誰が書いたか私にも判りません。それは多分書いた本人と千里ちゃんしか」 他人が書いた恋文を横領したのか。なんと下劣な。私は最早己の生徒に呆れている。 「先生、許して」 いつの間に立ち上がった彼女が出席簿を差し出し乍懇願してきた。 包帯の白が橙になる。 「許すも何も、あなた達は何を考えているのですか。私だってね大人で教師です。他人の物を勝手に奪うなんて、叱るべきは叱ります。木津さんも同様です」 珍しく教師面した私をおずおずと見上げる仕草がやけに疎ましく思えた。こんなに年の離れた少女達の気持ちなど私には理解出来ない。否、したくもないか。 「でも手紙の内容は、私も同じ気持ちだったんです。だからつい」 魔がさしたとでも云うつもりか。 こんなに納得のいかない話は無い。送り主はどうなる。この際内容の異常性には目を瞑るにしても、こんな結末はあんまりだ。 「木津さんに話しなさい。それで二人で本当の差出人に謝るとか、相談なさい。内容が内容ですから云い辛いかと思いますが仕様がありません」 少々角の立つ云方をし過ぎたとは思ったが、他人事に無頓着な私でも流石に今回は釈然としなかったのだ。 それに一寸教師振るのを楽しんでいる。 「わかりました。千里ちゃんに話して――だけど、先生。私、矢っ張あの手紙は私が先生に出したんです。覚悟して此処で待っていたんです。だから返事を」 聞き分けのない子だ。だから女は嫌だ。直ぐヒステリックになる。煩い。気に入らなければ、ぎゃあぎゃあと騒ぐ。 「いい加減にしてください。ほら、もうとっくに下校時間だ。今回の事はもう私には口にしないよう。あなた達だけで勝手に解決なさい」 差し出された出席簿を漸く受け取ると見たこともない顔をした彼女が肩を揺らして息を荒げていた。 ああ。よくない兆候だ。 「嫌、嫌っ!返事をくれなきゃ私帰りません!確かにあれは私が書いた手紙じゃないけど私が思っている事と一緒だもの!それに今回先生に渡したのは私なの。だから、だからっ」 もう支離滅裂だ。私の冷めた視線は今彼女をグサグサと刺しているが、まるで効果が見られない。可笑しい。 「せんせ――」 彼女の顔目掛けて派手に腕を振り上げると、頬を打つ乾いた音が虚しく響いた。体罰なんて嗤ってしまう。私は私の仕出かした事に責任がとれない。 「見苦しい。これ以上は本当に許しませんよ。帰りなさい」 これだけ包帯だらけなのだ。痣が付こうが構わないだろう。私には意外と加虐嗜好があるらしい。 「御免なさい」 聞き取れない程小さな声が耳を擽り、目は彼女の小さな背中を見送った。手紙はまだ懐の中である。 その後は感情の起伏の無い平和な日が続いた。小節、木津の両人も特別奇怪しなところもなく私は安心して何事も無く過ごしていた。 そうすると何故か物足りなく感じてしまった。私の日常を壊したあの恋文騒動を懐かしく思う。あんな風に憤慨したり、短い間に感情を乱す事は滅多に無い。何故あの時、彼女の望み通りにしてやらなかったものか。教師として? 成る程。それならば、その間私は教師を辞めて仕舞えば善い。欠伸が出る程簡単だ。 「小節さん」 他の生徒には気付かれない程度に脅えた目を私に向け、無言で頷いた。 頬は腫れていない。 「この間の話の続きがありますから」 わかりますね? 彼女にしか聞き取れないような小さな声で囁くと、面白い位に耳を赤く染めた処女が細い頸を折れそうな程前後に揺らした。 左様なら、私の日常。 ← |