誘惑

「医学書って面白いですか?」
この病院には隠れる場所がない。殆ど全て患者に曝されている。だから本だとかは自然と目につくし、本と名の付く物なら気になってしまうのが僕の性分だ。
「さあ。これは小説じゃないからね。医者にでもなりたいなら話は別だが」
「いえ。僕は血がそんなに得意ではないですから。医者は無理ですね。卒倒してしまう」
「ふうん。それなら、面白くはないと答えよう」
どんな辞書よりも厚そうな本を手持ち無沙汰に捲っている彼はネクタイを緩めて最早商売っ気を喪失している。まだ閉院には早いだろう。
相変わらず暇そうなこの病院は受付の女性以外殆ど休憩のように奥の部屋で好きに話している。大体何処にいても女性の話というのはまる聞こえだ。
「失礼」
そう言って白衣の内側から小さな箱を取り出して中から煙草を一本出すと、何の躊躇いもなく口に咥えた。此処は病院の診察室だ。
「先生」
「その先生って言うのはやめてくれないか。望と一緒にされている気分だ。――それで、何だい?」
「煙草の煙を以てしてまで僕を汚したいですか?」
「嫌味な子だね、君も。煙草は嫌いかい?」
「好きとか、嫌いとか考えたことがありません。喫煙者が周りに居ませんから」
「居るじゃないか、私が」
こんなに近くにねと悪戯っぽく笑う彼の顔は年より若く見える。如何にもといった感じの凛とした態度で、でも時折見せるこういった非道な行為に少しだけ共感を持つ。人は何もかも完璧なんてあり得ない。
「でもあなたから煙草の匂いがしたことなんてないです」
「私の匂いをいつも意図的に嗅いでいたとでも?ハハッ油断出来ないな」
紙を燃したような煙臭い匂いが鼻を掠めて思わず嚔が出た。どうも煙草には慣れていないらしい。
「おや。駄目なら駄目と言いなよ。私だって鬼じゃないんだから我慢出来るよ」
また白衣の内側から携帯灰皿を出して火を揉み消すと、そのまま腕を伸ばして鼻を摘ままれた。
「可愛い鼻だね」
「鼻を誉められたのは初めてです」
間抜けな声のまま答えると彼が一際柔らかく微笑んだので、心が落ち着くような錯覚をした。否否、この場所で、彼の前で油断はならない。
「そんなことはないさ。口も可愛いよ」
離れた腕を掴むと代わりに顔が近付いて好きなように口内を弄ばれた。
「痒い」
「ハハ!君も初めてじゃあないんだから一々餓鬼のようなことを言わないでくれよ」
一寸口の悪いこの人は豪快に笑う。同じ兄弟でも違うものだなあと思い乍も僕の頭はこっちの彼に支配されている。彼の思う壺だ。
「続きは?」
一瞬にして静まりかえってしまった。どうせそうなるのだから堂々と聞いたって悪くはないが、もっといじらしく聞けば良かったと後悔はした。
「彼女達に見せたいの?」
「べつに」
そこで奥の部屋からどっと女性特有の甲高い笑い声がもれてきて僕達もつられて失笑した。
「また来ます」
「そう。気を付けて帰りなさい」
去り際、制服に何か入れられた。ポケットが少し重みを帯びて、何かと渋い顔をすると腰を撫で上げて猫なで声で囁かれた。
「医学書以外なら此処じゃなくて此方だ」
恐らくポケットの中身はこうだ。
彼の家の鍵。
何事もなかったように奥の部屋へ入っていった後ろ姿を一寸蹴飛ばしたくなった。甲高い声の中に一回り低い声が混じる。こんなに流行らない癖に賑やかな病院である。
「嫌な大人だ」
続きは彼の蔵書を読んでから――