鈍痛

或夜、腐つたものを吐き出した。先程喰つた殘飯が食前の形その儘に體内から押し出されたのだ。暗闇に歸りたい。人工の光がじわゝと私を蝕む。裸電球が小さく照らし、醜い私の貌を曝し出してしまふ。歸りたい。暗闇へ歸りたい。此處には居られぬ。しかし外へ出れば暗闇は尚私から遠ざかる。闇が私を拒絶する。電流を傳つて發光する小さな太陽が私を蝕む。先づ腦が爛れる。體が内側から熔け出す。皮膚が剥ける。堪へきれずはち切れた私の肉片が飛び散る。其を鴉どもが唖唖と美味さうに啄む。私の肉はこの世の役に立つた。しかし爛れた腦が思ふ。私は鴉に喰はれ、孰れ消化され糞と化す。果たして鴉の糞などはこの世の役に立つだらうか。否、道を汚すだけだ。私は死んでも尚世に迷惑をかける。何と救ひ樣の無い。あゝ死んでしまひたひ。





私には文才と云うものがまるで無い。数ヶ月前に記したものや出版社へ出したものを読み返してみるも、とてもじゃないが最後までは読めない。これを書いたのは確かに私なのだが――この紙切れを捨ても記憶は残る。記憶ごと葬りたい。


「望、ほら。お前宛だ」
兄が差し出した封の中身を当てることが出来る。透視ではない。この出版社が駄目なら私は物書きを諦めてやると腹を括っている。解りきった是非を事前に決断したところでどうにもならないのだが、矢張そこにはもしかしたらと云う妄想に励む愚かな私がいるのだ。あまりに下らない話で可哀想になる。
しかしそれは自分だ。情けない。
「開けないのか?」
「この度貴殿の作品を拝読したところ、我が社の――」
「何だいそれは。この前のやつか?よく覚えているな。執念深い」
「原稿は御返し致します――あんな物返されてどうしろと言うのだ!」
「ううん。まあ、あれはなあ。確かに――。ほら、もたもたしていると私が開けてしまうぞ」
少し興奮気味の私を煽るように兄が封をひらひらと翳す。兄は以前送った原稿を読んでただ一言、独創的だねと言った。莫迦にしている。
「吁嗟!」
突っ伏すと紙を破る音が耳を支配した。乱暴な破り方だ。おっと兄が間抜けな、どっちともつかぬ声を上げたので思わず顔を上げると口に手を当てて吹き出すまいとする兄と目があった。
生まれて初めて兄を殴った。


二ヶ月前、あれから私は筆を絶った。もう二度と握るまい。そんな私の心境を知ってか知らずか家の者達もこの話題には触れなかった。しかし、そこで何故気にかけぬと遺憾に思ってしまうのが私の性分である。実に身勝手だ。まるで自分に注目がないといれない子供のような考えだ。
「もうあれから何も書いていないのです」
「ほう」
「腕が鈍ったかも知れません」
「へえ」
「ちょっと、兄さん。聞いているのですか」
「いや、聞いてない。望、お前あれは、ああ何という名前だったか――忘れたな。ほれ鴉がどうしたとか云う」
久しぶりに口を利いた兄は家の者一ずば抜けて変わり者ではあるが一応芸術家だし、ものの善し悪しだとか他とは目利きが違うであろう。それならば違った視野からアドバイスを貰えるかもしれぬと思って声を掛けた筈なのだが――
「お前の日記をただ読まされただけじゃあ糞程も面白くない。脇腹を擽られた方が余ッ程笑える」
「兄さん、それはあんまりだ。望が嬉々と自殺しますよ。大体この子の作風は笑える話じゃないでしょうに」
何処からともなく現れたもう一人の兄は大層可笑しそうに真顔で云った。
「おお。司法解剖はお前の仕事か」
「それは確か『鈍痛』ですよ。そうだね、望?最初に、何処だったかな。小さな出版社に送ったやつだ。実に陰鬱なタイトルだね。体がはち切れて鈍痛で済むとは。望、お前らしいよ」
「おお!命、医者の癖に洒落たことを言うなあ。ハハハ!」
「医者の癖には余計です」
穏やかに聞こえるこの会話は、実際何の変哲もない世間話に過ぎないが私にとって生き地獄である。散々罵られた挙げ句底を見て、掬い出してもくれない。落とすだけ落として解決も、意味すらも無いのだ。これではただの苛めだ。
「ああ!そんなに言うんでしたらどうぞ私の両手を切り落としてください!そうすればそれッきり私は筆を握れず、即ち下らない小説気取りな駄文を書き散らさなくて済む!兄さんの大好きなメスでも何でも持ってくればいい!」
自棄になって口角泡を飛ばしながら喚くと、客観的に私を見ている私が顔を出してきて嗤ってくる。
「なんだそれは。新しい小説の話か」
「メスはやれないけど――ほら、これをやろう」
そう言って兄が差し出した長細い箱に意表を突かれ、すっかり冷めてしまった。
「何、ですか」
「開けてみなさい」
珍しく真面目な物言いをした二番目の兄が満足気に微笑んでいたので怪しいと思ったのだが、どうやら杞憂に終わった。
万年筆だ。
「これ――」
「いい万年筆だろう。私が選んだんだよ。どうも兄さんには任せられないからね」
横でその兄が野次を飛ばした。
「望、腕を切るとか物騒な事は言うもんじゃないよ。それに手が無くとも口でも足でも字は書ける」
云々と相槌が入る。
「もう書かないなんて滅多に言うな。周りの意見なんかどうでもいいじゃないか。好きなだけ書き散らかせば善い。一寸私達も言い過ぎていた節があるけど、私は嫌いじゃないよ。どの話もお前らしくていいじゃないか。自信を持ちなさい」
光る万年筆に私が映っている。誉め慣れないばかりに戸惑っている。
派手に背中を叩かれて前屈みになった体を暫くは元の位置に戻せそうにない。泣いたのは二ヶ月振りである。

正しく鈍痛を感じた。