残香

図書館特有の匂いというのがある。古臭いような紙の匂い。インクの匂い。そこに少しだけ石鹸のような清潔な馨りが混じる。優しい、匂いだ。
「大草さん、いい馨りがする」
「そう?シャンプーなんて安物よ――それより私早く帰りたいの。終わりそう?」
旦那さんが待っているから?夕御飯の支度をしなければならないから?エプロンとかつけるのだろうか。
「フフ――うん、もう少しかかるかも知れない。先に帰っていいよ。今日の献立は?」
「まだ決めてない。私何か可笑しなこと言った?」
僕の思い描く主婦らしい主婦の格好をした彼女を想像して失笑してしまった。あまりに似合うから可笑しい。
「ううん、何でもないよ。遅くまで御免ね」
蔵書点検を自主的に始めた僕をみかねて加勢してくれた彼女は矢ッ張母親みたいな、奥方みたいな顔をして〈女子高生〉が一番遠い。老けている訳ではない。可愛い人だと思う。
「久藤君。禁断の恋なんてね、大袈裟だと思うな」
脈絡がない。主婦は何でもお見通し!という感じで苦笑いする彼女からまた石鹸の馨り。意図的に紙の匂いだけを吸った。
「どうして?」
「そんなのはね、フィクションの世界でだけの話よ。この本達みたいにね。――ああ。そう言えば先生、今日図書館には寄らないと思うわ。私が教室を出た時にまたみんなで揉めてたもの」
「ふうん。妬けるね」
何故知っているのか、不思議と焦らなかった。でも彼女が誰にも口外しなそうだからとか安心している訳でもない。
一度立ち上がったくせにまた座り直した彼女は多分態と少し恥じらうような仕草で笑った。
「先生のどこが好き?」
「ぜん、ぶ?」
そんなことは判らないので片言で返事した。好きなんだけれど、もしかしたら嫌いなのかも知れない。
本で作ったピラミッドの向こうで肘をつく彼女に早く帰れと促すべきか、気味悪く色恋の話に花を咲かすか躊躇してしまう。
「ねえ、先生と最後にセックスしたのいつ?結構前でしょう?久藤君最近艶がないもの。私ね瑞々しい久藤君のことちょっと好きよ」
「そう。それは、有り難う。誉めてるの?」
クスクス笑って肩を緩く揺らすそれは厭なくらい〈女子高生〉に見えた。図星とか、矢ッ張お見通し!なんだ。
「なんか年上の女の人と話してるみたいで厭らしいね」
「失礼ね。でももしそうならどうする?」
茶番だなあ、とぼんやり考えて曖昧に笑う。ピラミッドから一冊抜いて手元に引き寄せると埃が鼻を擽った。
「もしそうなら――僕の貞操を大草さんにブッ壊して貰おうかな」
一瞬だけ吃驚して目を見開いた顔は見なかったことにしてあげよう。言葉遣いなんて幾らでも態と変えられる。違う自分を幾らでも偽れる。
「嫌。男の人と女じゃ違うもの。嫌。嫌。」
そう何度も嫌と言われては何だか傷付くような、複雑な気持ちになる。別に大草さんとセックスしたいなんて思わないですよ、先生。
「フフ。大草さんも十分失礼だよ。ほら、帰らなくていいの?」
「え、ああ。うん、帰るわ。つい話し込んじゃった。これ、今日終わらなかったら明日もやりましょう」
「有り難う。じゃあ、気を付けて」
「お疲れ様」
引き戸の扉が閉まって彼女の姿が完全に消えるまで見送った。
石鹸の馨りがヤケに残る。開いた本の間に顔を埋めるとインクの匂いがした。
今から教室に行ったらまだ先生は居るだろうか。あの人の匂が思い出せない。