劣情

「離せ」
真っ黒で冷冽なその眼が嫌だ。
透明なレンズ越しに鈍く光る眼球も、薄い睫毛に縁取られた瞼も、その眼鏡ごと嫌いだ。
近頃の兄は態度が奇妙だ。なんとも態とらしい。私を突き放したところで如何なるものか。兄の考えが理解出来ぬ。
「兄さん、あなたは何を考えているのですか」
「命、いい加減にしろ。私にお前のお守りをする為の余裕などない。景の所にでも行け」
今あの人は関係ない。
理解出来ずとも気付いている。私が何も知らない餓鬼だと思ったら大間違いだ。
「此処を出ていくつもりなんだろう!」
声を荒らげようが、何をしても兄は私に取り合わないだろう。解っていても、もうそうするしか術が無い。
見苦しい。女の様に激昂して取り乱す私の醜さに、兄が呆れても仕様がない。
「何とか言ってください!」
「煩い。お前は何時からそんなに聞き分けが悪くなった。望を見習え」
今にも手元の花瓶だとかを投げ付けてやらんという心境だったが、弟の名前を聞いて急激に冷めてしまった。
私の、可愛い弟――
恐らく今、私の顔は気が抜けて酷い間抜け面だろう。込み上げてきた涙で兄の姿が揺らいだ。
「兄さん」
「もう二度目はないぞ――離せ。今度ばかりは私も手を挙げる」
弁護士が暴力を冷厳な態度で宣言した。好きにすれば善い。青痣だらけの私の顔を見て、弟や妹が泣いてくれるかも知れない。
「交は如何なるのです。兄さん、本当にあなたは何を考えて」
「命、お前がこんなに出来の悪い弟だったとは、心底失望させて貰ったよ。最後にそれだけはっきりして清清した――さあ、離しなさい」
まるで死ねと言われているような気になった。兄の笑顔などもう何ヶ月ぶりに見ただろう。否、私を莫迦にして嗤っているのだ。
離したら何処へ行く。
「兄さん」
離れた腕の距離がもっと離れて仕舞わぬよう、躰自体を近く寄せた。まるで体温を感じない。心が空虚で満たされる。
「出ていくのなら、」
欲しかったものはこの数年の間一掴みも手に入らぬまま、癒えぬ痣だけを遺して去っていく。
それなら、最後にもう一度――
「抱いてください」
唯一、私が必要としたもの。兄が居なくなる。