鎮静

一度きりの心の痛さなら我慢できた。それは二週間毎、拷問のように続いて僕を苦しめる。それでも僕がここへ通うのは、僕が生きたいと思えている証だ。

注射針を抜かれる瞬間が好きだ。刺されるのは当然痛いし好きにはなれないのだけれど、抜かれた瞬間のあの快感は複雑で例え難い。体内に薬を注がれる感覚も同じくらい気持ちいい。
抜かれる快感、注がれる感覚。
先生、あなたもそうですか?
「何か言ったかい?」
「いいえ」
四角いフレームの向こうで目が閉じて、開く。切れ長のその目はまるで同一なのに、それでも何故か目の前の黒の方が深くて呑まれてしまいそうになる。
その目は好き。
「今日も同じ薬を二週間分出そう」
少しだけ血の滲んだそこに絆創膏を貼って、わざとぺちぺちと音をたてて叩かれた。
「痛い」
「もう慣れてしまっただろう?」
意地悪く微笑むその仕草が心地いいと気付いたのは最近で、惜しい事をしたと思う。初めからそんな風に思えたなら、もっと知れたのに。
「先生」
真っ直ぐ僕を見て聞いてください。
「此処、黄色く変色しているんです。奇怪しくないですか?」
先日検査の際に注射された箇所が黄緑色っぽく腫れていて気持ち悪い。余っ程電話して訊こうと思ったのだけど、喚いて大袈裟だと嗤われるのが嫌で思い止まった。
「ああ、それね。強い薬だったから血管が炎症を起こしてるんだよ。気にすることはない。直治るよ」
変色している方の腕を取って摩ってくるその手の冷たさが、心に比例している様で切なくなる。
「なんか、病気みたいで嫌です」
他人がこんな腕を晒していれば普通はそう思うだろう。
「君は病気じゃないのか?」
計算の一足す一を間違えた事を咎めるような物言いで、だけど其処に優しさを見出している僕はそりゃあ病気かもしれないけど――
「じゃあ、また二週間後。今日と同じ時間で大丈夫かな?」
大丈夫じゃない日などない。
「その黄色くなってるところ、ずっと気になってたんだろう?何かあったら直ぐ電話しなさい。私は構わないから」
この人はよく僕の返事も聞かず一人で喋る。意外とお喋りで、社交的な人なんだろう。性格は違うのに何もかも同じなんて嘘だ。
でも本当は顔も声も、好き。
「なら今日帰ったら電話します」
「君は謙虚なのか図々しいのか判らないね。それともただの怠惰かな」
一際甲高い声で外人みたいな笑い声をあげるので少しだけ苛々する。下品だ。似合わない。
「その笑い方、嫌いです」
半端に開いたままの口元を片手で押さえつけてやると、掌に唇の柔らかさを感じて凄く卑猥な気がした。
掌に湿った舌先を当てられたのが擽ったくて指をそのまま捩じ込んでやる。抵抗はされないし、可笑しな光景だ。厭らしい。
大人は皆こうなのか――
「先生も、抜かれる瞬間が一番気持ちいいですか?」
片眉だけ吊り上げた器用な表情で何かを促している様だったから指を退かしてやった。
脱脂綿を差し出すのも、眼鏡を指の背で押し上げるのも、全部詰まらない。いくら似ていても矢っ張違う人間だなんて、卑怯だ。
でも本当は全部、好き。
「私は望じゃないんだよ」
「それはあなたでしょう、センセイ」
一度きりの心の痛さなら我慢できたのに。二度目ならもう戻っては来れなそう。
「命なんて、変な名前」

病気なんてだだのお遊びだ。