錯乱

友人から弟の悪い噂を耳にした。
友人は言う。

「お前の弟はどうかしちまったのか」

これまで私は、弟はおろか家族の話を同級の友人達に話したことはない。その上でこう持ち掛けられ、私は事態をのみ込めずいた。
勿論弟がどうしたのかと訊いたのだが友人はそれっきりばつが悪いと口を閉ざしてしまったのだ。

弟は何か一種の人格障害を引き起こしているのではないか。
確かに人より大人しく静かな子ではあったが、少なくとも私の前では変わったところなどない。何故弟が後ろ指さされなければならないのかと友人を問い質した結果だ。

あの子は校内で時折、突然憤慨してみたり、一日中呆として無気力だったり――そう、誰が見ても情緒不安定だった。恐らく校内で弟に近しい人物、私以外の者は皆知っていた。
言っていることがちぐはぐで理解出来ない時もあれば、話掛けても全く返答がなく虚ろな日もある。手首にはぼんやりと傷があるし、体育などの時には不自然な痣が幾つも見えたと言う。だが普段、成績は優秀だったし元より物静かであるから問題を起こす事もない。だからそう言った片鱗を目の当たりにした生徒や教師は大層驚いたらしい。

しかし本題は別にある。どうやら弟が他の男子生徒や教員らと度々性行為を繰り返していると言う噂がある。私はその話を聞いた時、関係のない目の前の友人を殴ってやろうと本気で思った。証拠に右の拳が汗をかいて震えていた。
どれも弟が誘ったと言う。まるで男娼のように。あまりに落ち着きのない素行から薬物の使用を疑っている者までいる。そんな事を言い出した奴を片っ端から殴りたい、蹴りたい――
私は自ら問い質したと言うのにそれ以上は聞いていられず、友人を制止した。

盲目的に愛し続けたのがいけなかったのだろうか。私が存分に可愛いがり慈しんでいると思い込んでいた行為はただの甘やかしに等しく、ただの自己満足だったのか。
あの子が何かに傷付き、何かを恐れているかも知れないなど、そんな事は一切考えたことが無い。私の勝手があの子を生んでしまったのかも知れぬ。いけない。批難されるべきは私だ。


私と弟は年子であった。
両親や兄達は大層変わり者で骨が折れたが決して問題のある家庭ではなかった。裕福であったし、何不自由なく私達は育った。
一つしか年の違わない弟ではあったが私はあの子を随分年の離れた弟の様に扱った。私の願望である。幼い弟が欲しかった。
しかし何か過ちがあったとは到底思えない。それも矢張私の勝手なのだろうか。普段静かな弟だって、それは楽しそうに声を上げて笑う時だってある。
私が今まで見てきたあの子は偽りだとでも言うのか――

私は人格障害について詳しくは知らない。そう言った分野に全く造詣がない訳ではないが、私の志望はあくまで外科医であって精神だとか実体の無いものはあまり得意ではない。
しかしそうなのだろう。何冊か書物を読んではみたが落胆するばかりだった。
可愛がっている弟を精神異常者と断定することがどんなに辛かったか。私はその片鱗とやらを目撃した事がないのだ。それなのに友人や校内の人間が白々しく話した事凡て、私はそれを鵜呑みしてしまう。
弟はその間も変わらず、大人しく利己な弟だった。


私はついに目を背けた。
考えれば考える程に迷い、それでいて私は弟を救えるだけの力が無い。普段の弟には何の問題も無いのだから、これは勘違いだろう。私は逃げたのだ。忘れたかった。
しかしある日弟は言った。
「私は奇怪しいのでしょうか」
私は崩れ落ちるような目眩を感じた。お前は頭のいい優秀な生徒じゃないかと不自然なまでに捲し立ててしまった。如何にも怪しい。
弟は薄く笑って何も言わなかった。
「私はね、兄さん。随分と昔に哀しいことを教わりました」
犯されていたのです。
私は最早膝が崩れて立てずにいた。ああ、それはまるで――
「人間失格です」
微笑んだ。弟が柔らかく微笑む。何故だ、何故そんなに穏やかなのだ。
私は今にも絶叫してしまいたくて堪らなかった。
弟の愛読書に理由があったなど――
ああ!嫌だ。嫌だ。認めない。そんな事を認めて堪るか!
「私は人間失格です」
この子の苦悩を私に乗り移つさせて祟られてしまいたい。私を呪えばいい。
私は何も知らない。この子を一番よく知っていると思い込んでいた自分の愚かしさ、浅はかさが暴走する。生まれて初めて感じる何かどす黒い得体の知れない物が生まれて、今にも喉から出てしまいそうだ。
「望、私は――本当に、すまない」
気付けなかった事、今もこうして助けてやれない事、ほんの僅か気付きかけた真実を投げ出した事――
謝るにしても、もっと他に言うべき事がある筈だ。しかし判らない。この子は私に何を求めるのか、判らない。
「私を××てください」
肝心の部分が聞こえず、思わず上げた目線の先では矢張弟が穏やかに微笑んでいた。まるで無垢な少女が何もわからず悪戯をしているような、愛らしさで。
「兄さん、私はいい子ですか」
もう駄目だ。私は所詮外科医志望の学生の分際で、人一人それも精神的に救ってやるような知識も力も、ましてや努力する根気も持ち合わせない。
それが弟でも同じ事だ。私はなんて残酷な人間なんだ。
「望、お前は――」
人間はこうなってはもう駄目なのだ。
「神様みたいないい子だよ」

私は弟に犯される。それがきっと、私の望みだろう。