金曜

「こんにちは」
声を掛けられる前に薄々気が付いていた。ああ、知らないふりが押し通せれば善いのに。その為にはこの部屋は狭すぎる。
「今日は、先生」
私が返事をするまで繰り返すつもりだろう。
「なんだ、君か」
今日は金曜日か――
「ふふ。先生は狡いわ」
「何が?」
こうして話を長びかせる。高校生というのはそんなに暇なのだろうか。善いご身分だ。
「私だって判っていた癖に、君かだなんて」
くすくす肩を揺らして笑らい乍ら私の向かい側の椅子に腰を下ろしたその少女は、ざんばらな髪を整えると正面から私を見詰めた。
外は強風だったのだろうか。
「何処か調子が悪いのかい」
一応これだけは毎回訊いてやるのだから私も随分律儀な男である。実際には、それ以外言うことがないというのが本音だ。
「あら。今まで私が具合が悪くて此処に来た試しがあって?」
「いいや」
「先生ったら。堅持ね」
果たしてこの娘は堅持の意味が解っているのだろうか。
「用がないのなら帰りなさい。直陽が暮れるよ」
「ええ。解っています」
もう溜め息を抑える気にもならない。盛大に吐いた筈の溜め息は、静かな部屋なのに響かず消えていった。
「君が何をしたいのか私には解らないよ」
「如何して?」
少女特有の擽る様な笑い声がまた室内に漂い、空気を震わせた。
もう何を言われて何を言い返しても会話は成立しない。年頃の娘の思考など妹のことでさえ私には不可解だと言うのに、氏名さえ真面に知らぬ彼女が何を意図して私に語り掛けるのかなど、私には理解する必要もない。
自分を見詰めたまま指一本動かさぬ少女を無視して、昼過ぎに看護婦が寄越した書類に手を伸ばした。啜った茶が温い。
沈黙が続いた。
窓からさす陽が橙になった頃、夕刻を知らす鐘が響いた。
「暗くなる前に帰りなさい」
「はい」
沈黙の間じいっと私を視ていた少女は、何時もこの時ばかりは私の言うことを素直に受け止める。そして別れもお決まりの流れで平然と姿を消すのだ。
「先生」
ああ、判っているから。早く帰ってくれ。
「私、先生が好きよ」
誰かに言いつけられたかの様な告白。台詞を棒読みする様な告白。
あの一言に何か一つでも意味が込められているとすれば、恐らくそれは――
いつの間にか鐘は止んだ。
「さよなら、望先生」
そしてまた来週、少女は橙に染まる。