初恋 委員会が終わり図書館を閉めた後、ふらふらと足の赴くままに歩いていたら宿直室の前だった。 ううん。何だか嫌な予感がする。止せばいいのに。僕は侵入してしまった。 部屋の中は地震があった後のように荒れていた。其処ら中にプリント用紙や教材などが散乱していて、その上倒れた湯飲みのお陰で一部床が水浸しになっている。足の踏み場がない。 散乱している新聞紙や塵紙の上で蹲って肩を震わしている人物に声を掛けてみるも中々通じなかった。 「先生?」 何度か繰り返してもう何回目の問い掛けか判らなくなった時、名前を怒鳴られて驚いた子供みたいに突然頭を上げたこの部屋の主は真っ直ぐ僕を見ていた。 いや違う。此方を見ているのにまるで僕は透けて見えず、その先の何かを見ているようなそんな目だ。 「先生、糸色先生?」 自分が幽霊になってしまい相手に言葉が通じなくなってしまったような錯覚に苛まれた。 僕は幽霊じゃない。僕が此処に存在すると確り証明するような反応が欲しい。 「に、さん」 何と言ったのだろう。ぼんやり気の抜けたその刹那、僕は耳を塞いだ。 小さな子供が駄々を捏ねるよりは悍ましく、痴呆の老人が喘ぐよりは美しい。泣き叫ぶと表現するべきか判らない。まるで女性の悲鳴の様な金切り声を喉が千切れてしまうんではないかと思う程絶叫し続けている。鼓膜が痛い。 これは異常な、大変な事態だ!そうは思えども僕は平常心だった。 ああ、先生が泣いているな程度にしか思えない。確かに吃驚はしたし焦った。だけど泣くならもっと、こう静かにさめざめと泣いた方が先生にはお似合いだ。 そんなことを考えている間にも目の前では地獄が繰り広げられている。 先生は床に散らばっていた紙屑を掻き毟ったり、頭を卓袱台に何度も叩きつけてみたりを繰り返す。金切り声から呻く様な喘ぎ声に変わってきた頃合い、ヒステリックな音響の中に無機質で冷たい音が孕んだ。 ジリリリリと何かが鳴っている。電話だ。勿論目の前で奇怪しくなってしまった人は出る様子がないので、いつまでも鳴り止まない電話の受話器を僕が代わりに自分の耳に押し当ててみた。 「もしもし」 先生の声だった。じゃあ目の前で暴れて居るのは誰だ。 「もしもし?」 電話の向こうから聞こえる先生の声は本物より少し物腰が緩やかで、もしもし、もしもしと繰り返す。誰だろう。きっと先生を救ってくれる人だ。直感的にそう思った。 「先生が泣いています」 電話は切れてしまった。 電話が切れてしまった後も先生はああだとか、ううとか言ったままで段々と僕は帰りたくなった。 帰ろうかな。僕が帰ってしまったら先生はどうするんだろう。でも先生に僕は見えていない。 僕は幽霊なのだろうか。 「望!」 呻き声の中にまた違う音が加わった。違う、これもまた先生の声だ。 僕はあっと息を飲む。もう一人先生がいた。 淡いベストの上に真っ白な白衣を羽織ったその人は走った後なのか呼吸を乱しながら先生に駆け寄った。 「に、さん」 また。さっきも同じことを言っていた。兄さん? ああ。先生にはお医者さんのお兄さんが居るとそう言えば僕は知っていたんだ。 「望、私が判るかい?」 鼻を垂らし真っ赤に充血した目を胡乱にさ迷わせている先生を揺さぶる先生のお兄さんはなんだか凄く必死で、自分との温度差が面白い。 「こんにちは」 なんて非常識な挨拶だろうと思うと可笑しくって笑いたくなったが生憎僕は既に笑顔だった。 「君は――」 「久藤です。先生、大丈夫ですか?」 呆気にとられて大袈裟に瞬きをしていたお兄さんは落ち着きを取り戻すと、憐れむ様な哀しい顔で笑いながら言った。 「ああ。久藤君、こんにちは」 その間も先生は頭をお兄さんの胸のあたりに預けて呻いたままだった。お兄さんは先生の頭を撫でながら何か小さな声で囁いている。 「先生は病気なのですか?」 気軽に、何でもないように訊いた方が善いだろうと思ってそう言ったのだけど裏目に出たらしい。お兄さんはまだ憐れむような、いや呆れたような苦笑を浮かべて首を静かに降った。 「いいや。そうじゃない。大丈夫だよ。望は、弟は少し混乱しただけさ」 「少し混乱しただけの大人がこんな部屋であんな風に喚き散らすんですか?」 純粋に思ったことを全て口にしたのは何だかこの人なら何を言っても優しく受け答えしてくれると思ったからで、意地悪をしているとか、そんな事は決してない。 「君は――いや何でもない」 眉を下げて微笑んだ白衣に僕は初恋を知ったような気になった。 鼓動が走った後のように跳ね上がって帰ってこない。心臓が、あらゆる血管が、熱く沸騰しているように激しく脈打つ。 「久藤君、弟はもう平気だから。君は帰りなさい」 段々先生が疎ましくなってきた。まだ言葉にならない変なことをぼそぼそ言っているし、早くその人から離れて欲しい。どう見てもこれは病気だろう。精神的に。 「別に僕は先生を案じてなんかいませんよ。たまたま入ったら先生がこんな常態だったので吃驚はしましたけど――」 「帰りなさい」 僕が先生を悪く言うような態度をとったから気を悪くしてしまったのかも知れない。殊更優しげに微笑んだ中に嫌悪感が隠しきれていなかった。 「御免なさい。言い過ぎですね。悪く思わないでください」 先生の頭はもうお兄さんの胸からずり落ちていて不自然な膝枕のような体勢になていた。酷く滑稽だ。不愉快ではあったけれど必死に笑顔を繕って先生の背中を撫でてやった。 「先生、お大事に」 立ち上がった瞬間、紙が破れる音がして足元が少しふらついた。 「気を付けてお帰り」 「ええ。それじゃあ、失礼します」 角ばったの眼鏡のフレームが夕日を反射して白衣を薄く朱色に染めている。眼鏡の奥の瞳が明確な意思を以て僕に早く帰れと促している気がした。 渋々返した踵の先で先生がううっと唸った声を聞き、ああ吐いたなと思った。 部屋が忽ち異臭に包まれたので素早く脱出する。 ああ何てことだろう。元から無に等しかった担任の信用と引き換えに僕は途轍もない物を手に入れてしまったのではないか。 「また会えますね?――先生」 初恋は確かに酸味を効かせた香りがした。 ← |