生活

僕が図書委員になったのはたんに本が好きだからと言う理由だけではない。
家に帰りたくなかった。
部活はする気にならない。本を読んでいるだけで暇を潰せる図書委員はなんと都合のいいことだろうと感動した。
だけど、それでも結局家へ帰らなければならない。

町全体が夕焼けに染まり僕はこの時間に外を歩くのが好きだ。犬を散歩させている老人とすれ違ったり、仕事帰りの大人がいたり。夕刊を届けるバイクのエンジン音や五時を知らす鐘が在り来たりな日常を演出する。
郷愁的でまるで映画の一場面の様に美しい風景。不幸なんてまだ知らない子供達が帰るのを惜しんでいる公園。
そうだ。僕も家に帰りたくない。

帰りたくないと思うようになったのはいつからかもう覚えていない。なんだか突然泣きたくなって、目に涙が溜まってでも泣けなかった。それでもう帰りたくないと思ったんだ。


僕の家は左右を草臥れた一軒家に囲まれている。あまり近所付き合いはない。花壇に植えられていた花は確かパンジーだとかだったが、それは母の趣味だ。まるで花屋の軒先の様に綺麗だった庭は今はもう面影すら残っていない。
「准」
台所から聞こえた声で母親の存在を確認する。それ以外何も音がしない。
「お帰りなさい。また委員会?今日は何を読んだの?随分遅かったから余程面白かったのね」
まな板の上や鍋の中、冷蔵庫の中も全部空だ。この家には何もない。包丁や鋏、カッターやガラスの食器。みんな父が隠してしまった。
「今日は准の好きなカレーよ」
空っぽの鍋がカタカタ音をたてた。
やめてくれ!
叫びたくなるのをぐうっと我慢して、また目に涙が溜まった。
「ただいま、母さん」
背中で母親の声を受けながら二階への階段を駆け上った。
涙はやっぱり流れない。

寝てしまおう。瞼を閉じなくてももう部屋は真っ暗だ。何か楽しい夢が見たい。ファンタジー小説の主人公になって小さな妖精と五色の星を捕まえる旅に出る。時には命を狙われたりして僕らは星を探し出す。ベルベットの川をオールを漕いで渡って行く。


トントン
「准、寝ているのか」
時計がコチコチと秒針を刻む音と部屋をノックする音がぼんやり聞こえて目が覚めた。五色の星もベルベットの川もない。
身体が重くて少し熱かった。お腹が減った。動きたくない。眼球の奥を抉られている様な頭痛がする。
「起きているなら下りてきなさい」
父が帰ってきたらしい。


一階へ下りると父はダイニングにいた。
「母さんは?」
「もう寝たよ」
父の顔は翳って少し前より老けて見えた。いつまでも若いような気がしていた両親が衰えていくのは生きていて一番怖いことのように思える。
人はいつか必ず死ぬ。
「自分で温めなさい」
ネクタイを緩める父の手はやっぱり年老いて見えて、幼い頃手を引いて歩いてくれていた時の面影を完全になくしてしまっている。
「いただきます」
もう何年も弁当を食べ続けている。ごくたまに自分で作ることもあってその時は母も父も喜んで食べてくれる。
まるで何も問題のない幸せな家庭であるように父は振る舞うし、僕もそうする。母は本当に嬉しそうに笑う。僕を小さな子供の様に褒める。食後食器を一緒に洗いながら学校や最近読んだ本の話をする。
その度にいつも泣きなくなった。
初めに間違ってしまったのは一体誰で、いつからなんだろう。
温めが足りずご飯がまだ少し冷たかった。
「もう僕は嫌だ」
今日の弁当はあまり美味くない。もういらない、嫌だ。こんな食事も、こんな生活も、こんな思いをするのももう沢山だ。
四角いプラスチックの弁当箱を真向かいに座っている父に向かって押し出してから後悔した。一番辛いのはきっと父だ。
「准」
いつも父は無口で表情から機嫌を窺うのは難しい。でもその内側はきっと優しさと慈しみがぎうっと詰まっていて、ただ不器用なんだ。
僕は両親に叱られたことがない。
「明日はお前が作りなさい。母さんも喜ぶ」
押し出した弁当をまた温め直す父の背中を見詰めた。もう僕と然程変わらない身体つきがいつかは縮んでいってしまうんだ。
いつも流れない涙が今日は止まらなくなった。
「父さん」
僕は―――
「これを食べたらもう寝なさい。包丁と食器の場所はわかるな?明日の朝材料代を渡そう」
お釣りで好きな本でも買いなさい。
父は度々誑かす。いつまでも、ずっとずっと逃げ続ける。僕と同じ様に。
「たまには父さんが作ってよ」
情けないくらい震えた声が静かな部屋に響いて空気も一緒に揺れた。静かすぎて耳鳴りがする。
「駄々を捏ないでくれ」
笑いながら髪を乱暴に撫でられて返す言葉が見つからなかった。子供扱いされるのはむず痒い。
「明日、早く帰ってきてね」


僕はずっと嘘をつく。明日も明後日も。母さんが死んだって、父さんが死んだってずっと嘘をつく。初めて間違った日から決めたんだ。

この生活はいつも幸せで満ち溢れています。